この記事を書いている今日は、2023年8月15日、78回目の終戦の日です。
78年前の8月15日に戦争が終わりました。
この日のことを、手塚治虫さんは、次のように記しています。
八月十五日の夜、ぼくは夢遊病者のように電車に乗って大阪へ出ていった。とにかく動いていないとたまらなかったのである。車内はがらんとして幽霊電車のように空虚であった。
出所:講談社版手塚治虫漫画全集『手塚治虫エッセイ集 1』
「おお、大阪の街に灯がついている!」
ついているのだ、魚の目玉ほどの灯があちこちに!
H百貨店のシャンデリアが、はげ落ちた壁の間で、目も眩むばかりに輝いている。何年振りだろう、灯火管制がとかれたのは? その灯を見ていたら、はじめて平和になったのだという気分がこみ上げてきて、満足このうえなく、踊り狂わんばかりに陽気になった。
ヒャア、おれは生き残ったんだ。幸福だ。
95歳の私の祖母は、17歳で終戦を迎えました。その祖母に、2年前の8月15日に、戦時中や戦後すぐ、どのように生活をしていたか、少しだけ質問したことがありました。具体的な事はあまり聞けなかったものの、当時のことは「よーく覚えているよ」とのことでした。
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1年前には、戦争にまつわるこんな記事を公開しました。
また、東京大空襲に関する記事も綴っています。
この記事には、こんな持論を刻みました。
同年3月10日、東京大空襲の日、市川市では日本毛織中山工場が空襲を受け、1,600坪(約5,280㎡)が全焼したそうです。現在のニッケコルトンプラザが、78年前に空襲を受けた場所にあることを知る人は少ないかもしれません。コルトン敷地内に、その歴史を伝えるモニュメントを建ててはどうでしょうか?
出所:特定非営利活動法人フリースタイル市川公式Webサイト「【コラム】東京大空襲(1945.3.10)から78年」(2023年3月11日)、https://fs-ichikawa.org/war_is_over/、2023年8月15日閲覧。「同年」とは1945年です。
無責任にも、「コルトンプラザ敷地内に空襲のモニュメント建立」という提案をしているのです。
誰が?
私が。
市川市平和委員会の委員の方に、この話をしてみようかとも思っています。
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戦争に関連することで言うと、ちょうど今、アイ・リンクタウン45階展望施設(市川駅南口、ザ タワーズ ウエスト)で、「平和パネル展」が行われています。2023年8月9日から17日まで、時間は9時から22時まで。ん?22時?!間違いじゃないですよ、夜10時までです。仕事の終わりに見に行くこともできますね。
原爆や東京大空襲に関するパネルの展示があります。フリスタのメンバーも見に行ったと言っていました(正確には「書いていました」。Facebookに)。また、既に開催された「空襲体験講話」に続き、この記事が公開される8月16日(木)の14時から15時には、「被爆体験講話」が催されます。
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世界では今現在も戦争、内紛が起きています。そして、地元で安全が脅かされるため、そこを去らねばならない人、いわゆる難民、避難民と呼ばれる人が世界中にたくさんいます。
日本にもいます。市川市にだっているのです。
迫害、紛争、暴力、人権侵害などにより2022年末時点で故郷を追われた人の数は約 1億840万 人 。そして、2023年に入ってからもスーダン等で紛争がぼっ発しており、世界全体の強制移動の数は1億1000万人に達しています。
出所:国連UNHCR協会公式Webサイト「数字で知る難民・国内避難民の事実」https://www.japanforunhcr.org/refugee-facts/statistics、2023年8月15日閲覧
市川市に関係があろうとなかろうと、関心を持つ人は持つし、持たない人は持たない、それはそうです。しかし、自分の家の近くに、自国を追われるように去って、逃れてきた人がやってくる可能性はあります。
移民ということで言えば、
まるで日本人は移民になることなどないような錯覚にとらわれる。しかし、明治から戦後のある時期まで、日本は確かに国策として移民を推奨する「移民送り出し国」であった。
出所:寺尾紗穂「日本人が移民だったころ」(河出書房新社)
という歴史の先に、上に、私たちは生きていることも忘れずにいたいものです。
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8月に戦争のことを報じる、このようなことを、カレンダー・ジャーナリズムと呼びます。8月だけ戦争のことを報じる、それは本来のジャーナリズムの役割ではないのではないか?という批判を込めた呼称だと思われます。「旬のネタを消費する」というような扱いには注意が必要ですが、しかし、ある事象を取り上げるべきタイミングがあり(他の時期にも取り上げれば良いとは思いますが)、それが、「あれから○年、ことしも□月□日がやって来ました。記憶を風化させてはなりません」という報じ方であったとしても、その報道に接することで、能動的に考え、行動する人はいるでしょう。無意味とは思えません。
すみません、蛇足ですね。
最後に、戦争関連の話題の中からひとつ、いや、ふたつ、記事の一部を紹介します。戦争?遠い過去の話でしょ、もう済んだ話だよねー―と、言う人もいるかもしれませんが、全然そんなことありません。
一つ目の記事は、長崎の原爆被害に関するものです。
広島への原爆投下直後に降ったいわゆる「黒い雨」をめぐり、国は、広島では「被爆地域」の外にいた人でも「黒い雨」を浴びた可能性が否定できない場合などは被爆者と認定する新たな基準を設けた一方、長崎については、今も認定していません。
国は客観的な記録がないなどとして長崎で「黒い雨」が降ったことを否定する見解を示しているのに対し、長崎県と市は、国が定める地域の外にいた被爆体験者の被爆者認定につなげようと、国に対して、客観的な証拠を示すために改めて調査するよう求めていました。
この要望を受けて厚生労働省は、長崎市にある「国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館」に所蔵されている被爆体験記を来月中旬から調査することを決めました。
出所:NHK公式Webサイト 長崎 NEWS WEB 「『黒い雨』めぐり厚生労働省が長崎の被爆体験記を来月から調査」(2023年6月22日)https://www3.nhk.or.jp/lnews/nagasaki/20230622/5030018202.html、2023年8月15日閲覧
40年にわたって沖縄戦の戦没者の遺骨を収集する具志堅隆松さんに関する記事です。
長年にわたって遺骨収集活動を続けるなかで、具志堅が国の援助を求めたのは一度や二度ではない。だが助けはほとんど得られなかった。米国には過去の戦争で命を落とした人々の遺骨を回収する専門の機関があるのに、と具志堅は悔しげに語る。
日本の官僚は何十年もの間、「遺骨収集に関する法律がないから何もできない」の一点張りだったという。2016年には、戦没者の遺骨収集を国の責務と定めた「戦没者遺骨収集推進法」が施行されたが、その後もほとんど変化はなかった。
出所:クーリエ・ジャポン公式Webサイト「太平洋戦争で墓場と化した沖縄に再び忍び寄る戦争の影 戦没者の遺骨収集は『戦場で鬼になった人たちを、再び人間に戻すこと』」(2023年6月23日)https://courrier.jp/news/archives/329770/、2023年8月15日閲覧
戦争そのものは78年前に終わりました。しかし、戦争が招いた(引き起こした)、つまり、人間が起こしたひどい事態を総括できていない、宙ぶらりんの状態で時間だけが経過していることもあります。
上で紹介した沖縄の遺骨を集める具志堅さんに関する記事ですが、今年(2023年)の6月23日に公開されました。この日が何の日かご存知ですか?
沖縄の慰霊の日です。沖縄に上陸したアメリカ軍との組織的な戦闘が終わった日とされています。日本、アメリカ、両国合計で、200,000人以上が亡くなっており、日本側の犠牲者は約190,000人ということです。沖縄県民は、一般住民は推計で94,000人、軍人・軍属28,228人、合計で約122,000人が亡くなり、県民の4人に1人が亡くなったという悲惨な戦闘でした。これだけ多くの人が亡くなった沖縄戦ですから、今もなお遺骨がたくさん土中などに眠っているのです。
沖縄では基地を巡る問題が今でも大きな話題となっていますが、私がこの話題を実際に口にする機会はほとんどなく(つまり家族や友人やフリスタのメンバーと話すことは滅多になく)、せいぜい、SNSに投稿するくらいでしかありません。
長くなりました。
沖縄の遺骨について関心のある人は、こちらの記事もあわせて読んでみてください。具志堅隆松さんも登場します。
Dialogue for People(2021年4月27日)
取材レポート 遺骨の語る声なき声 ―沖縄戦戦没者遺骨と新基地建設―(安田菜津紀、佐藤慧)
https://d4p.world/news/10183/
それでは、また、お会いしましょう!体調を崩しやすいシーズンです。肉体的な健康の崩れが、精神的な不調をきたすこともあるかもしれません。なるべく無理をせず暑い夏を乗り切りましょう!
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執筆日 2023年8月15日(78回目の終戦の日)
公開日 2023年8月16日