先日、市川市の田中甲市長が公表した施政方針の中から、私(フリースタイル市川の鈴木雄高)のドクダミで、否、ドクダン(独断)で、10項目を取り上げ、紹介しました。
この時、取り上げ損ねた重要な事項がありました。オー!ミステイク!
また、本市ゆかりの文学者である永井荷風氏の名を冠した文学賞を創設し、功績をたたえるとともに、若手文学者の発掘に力を入れてまいります。
出所:市川市公式Webサイト「令和6年度 施政方針」(2024年2月)https://www.city.ichikawa.lg.jp/common/new02/file/0000447565.pdf、2024年2月27日閲覧
千葉日報公式ウェブサイト(2024年2月27日)
「永井荷風文学賞」創設へ 11月に概要公表 ゆかりの市川市
https://www.chibanippo.co.jp/news/local/1167975
戦後、市川市に移住し、亡くなるまで住んだ作家・永井荷風氏。その、永井荷風氏の名を関した文学賞(千葉日報の記事のタイトルには「永井荷風文学賞」とあります)を創設するとのこと。
自治体が主催する文学賞としては、太宰治賞があります。主催というか、共催というかたちで運営されています。元々は筑摩書房が一社で主催していたのですが、業績悪化で賞の継続が難しくなったので、一旦終了し、空白の20年間(1979~1998年)を挟んで、1999年から、太宰治が棲んでいた町、東京都三鷹市との共催で、再開し、今に至っています。
他にも、文学者の名を関した自治体主催の賞はあります。例えば――
- 泉鏡花文学賞(石川県金沢市、1973年~)
- 坪田譲治文学賞(岡山県岡山市、1984年~)
- 富田砕花賞(兵庫県芦屋市、1990年~)
- 紫式部文学賞(京都府宇治市、1991年~)
- 中山義秀文学賞(福島県白河市、1993年~)
- 萩原朔太郎賞(群馬県前橋市、1993年~)
ここに挙げた賞は現在も継続中なので、地域に根付いていると言ってよいと思います。市川市が創設する新たな文学賞も(市が手がけた文化的な事業「市本」のように突然終わらせることなく)長く続き愛され親しまれるものになることを願います。
耽美派の代表的な作家であった永井荷風氏の名を冠するので、耽美主義的な作品を評価する賞になるかもしれません。
「永井荷風文学賞(仮)」を創設するにあたって、市川市は、慶応大学の三田文学会から協力を取り付けているそうです(情報出所:千葉日報公式ウェブサイト「『永井荷風文学賞』創設へ 11月に概要公表 ゆかりの市川市」(2024年2月27日)https://www.chibanippo.co.jp/news/local/1167975、2024年2月27日閲覧)。三田文学会は、1910年(明治43年)5月に永井荷風氏を主幹として創刊された『三田文学』を発行している、という縁があります。
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77年前、1947年(昭和22年)の2月、つまり今頃、温暖化が進んでいなかった時代ゆえ、市川市域は今よりもグッと肌寒い日が多かっただろうと予想しますが、永井荷風氏はこんなことを綴っています。永井ですが、否、長いですが、市川市域の77年前の情景を想像しながら読んでみてください。読めない漢字もあると思いますが、雰囲気を掴めさえすればOK、目で文字を追ってみましょう!
菅野に移り住んでわたくしは早くも二度目の春に逢おうとしている。わたくしは今心待ちに梅の蕾の綻びるのを待っているのだ。
去年の春、初めて人家の庭、また農家の垣に梅花の咲いているのを見て喜んだのは、わたくしの身に取っては全く予想の外にあったが故である。戦災の後、東京からさして遠くもない市川の町の附近に、むかしの向嶋を思出させるような好風景の残っていたのを知ったのは、全く思い掛けない仕合せであった。(略)
わたくしは日々手籠をさげて、殊に風の吹荒れた翌日などには松の茂った畠の畦道を歩み、枯枝や松毬を拾い集め、持ち帰って飯を炊ぐ薪の代りにしている。また野菜を買いに八幡から鬼越中山の辺まで出かけてゆく。それはいずこも松の並木の聳えている砂道で、下肥を運ぶ農家の車に行き逢う外、殆ど人に出会うことはない。洋服をきたインテリ然たる人物に行逢うことなどは決してない。しかし人家はつづいている。人家の中には随分いかめしい門構に、高くセメントの塀を囲らしたところもあるが、大方は生垣や竹垣を結んだ家が多いので、道行く人の目にも庭や畠に咲く花が一目に見わたされる。そして垣の根方や道のほとりには小笹や雑草が繁り放題に繁っていて、その中にはわたくしのかつて見たことのない雑草も少くはない。山牛蒡の葉と茎とその実との霜に染められた臙脂の色のうつくしさは、去年の秋わたくしの初めて見たものであった。野生の萩や撫子の花も、心して歩けば松の茂った木蔭の笹藪の中にも折々見ることができる。茅葺の屋根はまだ随処に残っていて、住む人は井戸の水を汲んで米を磨ぎ物を洗っている。半農半商ともいうべきそういう人々の庭には梅、桃、梨、柿、枇杷の如き果樹が立っている。
出所:永井荷風「葛飾土産」。青空文庫、https://www.aozora.gr.jp/cards/001341/files/49636_39417.html。
底本は、「荷風随筆集(上)」岩波文庫、岩波書店、1986(昭和61)年9月16日第1刷発行、2006(平成18)年11月6日第27刷発行。底本の親本は「荷風隨筆 五」岩波書店、1982(昭和57)年3月17日第1刷発行(太字は筆者による強調)
千葉街道の道端に茂っている八幡不知の藪の前をあるいて行くと、やがて道をよこぎる一条の細流に出会う。
出所:永井荷風「葛飾土産」。青空文庫、https://www.aozora.gr.jp/cards/001341/files/49636_39417.html。
両側の土手には草の中に野菊や露草がその時節には花をさかせている。流の幅は二間くらいはあるであろう。通る人に川の名をきいて見たがわからなかった。しかし真間川の流の末だということだけは知ることができた。
真間川はむかしの書物には継川ともしるされている。手児奈という村の乙女の伝説から今もってその名は人から忘れられていない。
市川の町に来てから折々の散歩に、わたくしは図はからず江戸川の水が国府台の麓の水門から導かれて、深く町中に流込んでいるのを見た。それ以来、この流のいずこを過ぎて、いずこに行くものか、その道筋を見きわめたい心になっていた。
これは子供の時から覚え初めた奇癖である。何処ということなく、道を歩いてふと小流に会えば、何のわけとも知らずその源委がたずねて見たくなるのだ。来年は七十だというのにこの癖はまだ消え去らず、事に会えば忽ち再発するらしい。雀百まで躍るとかいう諺も思合されて笑うべきかぎりである。
底本は、「荷風随筆集(上)」岩波文庫、岩波書店、1986(昭和61)年9月16日第1刷発行、2006(平成18)年11月6日第27刷発行。底本の親本は「荷風隨筆 五」岩波書店、1982(昭和57)年3月17日第1刷発行(太字は筆者による強調)
真間川の水は堤の下を低く流れて、弘法寺の岡の麓、手児奈の宮のあるあたりに至ると、数町にわたってその堤の上に桜の樹が列植されている。その古幹と樹姿とを見て考えると、真間の桜の樹齢は明治三十年頃われわれが隅田堤に見た桜と同じくらいかと思われる。空襲の頻々たるころ、この老桜が纔に災を免れて、年々香雲靉靆として戦争中人を慰めていたことを思えば、また無量の感に打れざるを得ない。しかしこの桜もまた隅田堤のそれと同じく、やがては老い朽ちて薪となることを免れまい。戦敗の世は人挙って米の価を議するにいそがしく、花を保護する暇がないであろう。
出所:永井荷風「葛飾土産」。青空文庫、https://www.aozora.gr.jp/cards/001341/files/49636_39417.html。
真間の町は東に行くに従って人家は少く松林が多くなり、地勢は次第に卑湿となるにつれて田と畠とがつづきはじめる。丘阜に接するあたりの村は諏訪田とよばれ、町に近いあたりは菅野と呼ばれている。真間川の水は菅野から諏訪田につづく水田の間を流れるようになると、ここに初て夏は河骨、秋には蘆の花を見る全くの野川になっている。堤の上を歩むものも鍬か草籠をかついだ人ばかり。朽ちた丸木橋の下では手拭を冠った女たちがその時々の野菜を洗って車に積んでいる。たまには人が釣をしている。稲の播かれるころには殊に多く白鷺が群をなして、耕された田の中を歩いている。
一時、わたくしの仮寓していた家の裏庭からは竹垣一重を隔て、松の林の間から諏訪田の水田を一目に見渡す。朝夕わたくしはその眺望をよろこび見るのみならず、時を定めず杖をひくことにしている。桃や梨を栽培した畠の藪垣、羊の草をはんでいる道のほとり。いずこもわたくしの腰を休めて、時には書を読む処にならざるはない。
真間川の水は絶えず東へ東へと流れ、八幡から宮久保という村へとつづくやや広い道路を貫くと、やがて中山の方から流れてくる水と合して、この辺では珍しいほど堅固に見える石づくりの堰に遮られて、雨の降って来るような水音を立てている。なお行くことしばらくにして川の流れは京成電車の線路をよこぎるに際して、橋と松林と小商いする人家との配置によって水彩画様の風景をつくっている。
底本は、「荷風随筆集(上)」岩波文庫、岩波書店、1986(昭和61)年9月16日第1刷発行、2006(平成18)年11月6日第27刷発行。底本の親本は「荷風隨筆 五」岩波書店、1982(昭和57)年3月17日第1刷発行(太字は筆者による強調)
いかがですか?失われてしまった市川市域ののんびりとした情景が綴られています。東京から転居してきた永井荷風氏にとって、まだ自然が豊富に残されていた当時の市川市域の景観は、郷愁(ノスタルジー)を喚起するだけでなく、未知なものとの出会いの場でもあったようです。
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なお、冒頭の画像は東京新聞TokyoWeb「永井荷風をとりこにした浅草芸能 江戸川大・西条教授が東向島で講演」(2021年3月1日)掲載画像の引用です。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/88747
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「永井荷風文学賞(仮)」の創設、楽しみですね。
田中市長の施政方針では、若手文学者の発掘に力を入れたいとあるので、この賞は新人賞として位置付けられると予想できますよね。私も応募しようかなと思っています。むろん、ストリート文学(散歩文学)で。
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執筆日 2024年2月27日、28日
公開日 2024年2月28日