【もちカイギ】根本自治会「餅つき大会」を中継しました!(第22.5回いちカイギ)2022年1月28日

いちカイギ

公開日 2023年2月3日

人と出会って街を好きになる。

これは、交流イヴェント「いちカイギ」に冠されたキャッチコピーです。

前回の「いちカイギ」は、2022年11月26日(土)に開催された「第22回いちカイギ~出会いは秋風の中~」でした。
ゲスト:
Quokka オーナーの金内友弥さん
京成電鉄株式会社に勤務するかたわら、いちかわ京成縁線逍遥を主催する林祐悟さん
市川市生活サポートセンターそら主任相談支援員であり、中核地域生活支援センターがじゅまるセンター長も務める朝比奈ミカさん

「第22回いちカイギ~出会いは秋風の中~」開催報告

次回の「いちカイギ」は、2023年2月11日(土)に「ニューボロイチ」内で開催される「第23回いちカイギ~ニューボロいちカイギ~」です。
ゲスト:
DEPOT CYCLE & RECYCLEの店主で ICHIKAWA CITY Tシャツでも知られる湊誠也さん
こざと整骨院を営む中川周史さん
感じる写真と書いて感写・フォトグラファーの三條康貴/サンジョウヤスタカさん

実は、この2つの「いちカイギ」の間の2023年1月28日(土)に、「第22.5回いちカイギ~もちカイギ~」が開催されていたのです。

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「第22.5回 いちカイギ ~もちカイギ~」
日時:2023年1月28日(土)13:00頃~14:00頃
会場:根本自治会館(市川市市川3-28-8)
内容:①餅つき大会生中継、②ゲストヘのインタヴュー

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この日、根本自治会館では、11:00~15:00に、餅つき大会が開催されました(主催:根本自治会※1、協賛:國府神社、消防第2分団、協力:真間小パパの会)。

根本自治会
https://nemotoclub.net/

フリースタイル市川のメンバー澤田さんが消防第2分団の団員ということもあり、フリースタイル市川が、餅つき大会の様子をインターネットで生中継することになりました。また、主催・協賛・協力団体からゲストをお迎えし、インタヴューを行うことも決定!

いつもの「いちカイギ」とおもむきを多少はにするものの、「人と出会って街を好きになる」という「いちカイギ」のコンセプトはそのまま当てはまるので、「ミニいちカイギ」、すなわち、「ミニカイギ」、いやさ、「もちカイギ」と称して、フリスタらしく楽しいイヴェント内イヴェントができれば良いね、という話になったのです。

当日は、YouTuberでもあるフリースタイル市川の國友さんが所有する配信機材が大活躍!稲村さんが撮影や会場の様子を伝えるレポーターとして役割を担ってくれました。生中継した映像がアーカイヴとして残っており、以下のURLをクリックすると視聴することができます。

「第22.5回いちカイギ~もちカイギ~」
アーカイヴ映像
https://www.facebook.com/watch/live/?ref=watch_permalink&v=722188775950974

全体で55分ほどあります。

前半から中盤にかけて、小さな子どもから大人まで、様々な人たちが入れ代わり立ち代わり杵で餅をつく様子や、できたてのお餅を受け取って食べる稲村さんや私(ノスタルジー鈴木)の様子が収められています。

Facebookで生中継されている「もちカイギ」を視聴しているスマホ画面。できたてのお餅をゲットするために並んでいるパースン。左:稲村ジェーンさん、右:マッキントッシュ岩永さん。
餅をつく私(ノスタルジー鈴木)。アーカイブ映像をキャプチャしたものです。

後半では、ゲスト2名、真間小パパの会 副会長・高宮泰裕さんと、市川消防第2分団 分団長・山本直紀さんに私がインタビューする場面もありますよ。

中継映像からのキャプチャ。左:MCのノスタルジー鈴木。右:ゲストの真間小パパの会・高宮さん。

以前から、フリースタイル市川のメンバーズ(澤田さんや野口さん)から、真間小パパの会の話を聞いており、その存在は認識していましたが、この日、高宮さんにお話をうかがって、パパの会の謎が解けました。

パパの会主催で色々なイベントを行い、とにかく自分たちが楽しむことを重んじていて、それを見た大人が参加してくれたり、子どもが何かを感じてくれることにつながっているとか、現在はメンバーが30名ほどいること、それ以外に興味のある人も参加できるLINEオープンチャットのメンバー数は60名にのぼることなどを話していただきました。

中継映像からのキャプチャ。左:MCのノスタルジー鈴木。右:ゲストの消防第2分団団長、山本直紀さん。

山本さんは、この地域の歴史に大変詳しく、実は「もちカイギ」開始前にもたくさん話を聞かせていただいていました。本番のインタヴューでも、ここに書ききれないほど多岐にわたるお話を聞かせていただきました。貴重なお話は尽きることがなくnever ending story、お話はお持ちのように長~く伸びて伸びて、「もちカイギ」終了時間間際までエキサイティングなトークが続き、ついには中継に使用していた稲村さんのスマホのバッテリー残量がゼロになり、MCの私の挨拶が終わるか終わらないかという瞬間ときに、強制的に中継が終了するというハプニングが起きました!

そんな面白い映像を、こちらで是非ご確認ください。

「第22.5回いちカイギ~もちカイギ~」
アーカイヴ映像
https://www.facebook.com/watch/live/?ref=watch_permalink&v=722188775950974

私自身、自治会館内に入ったことも、餅つきをしたことも、かなり久しぶりのことでした。会館の中には畳敷きの和室があり、お餅を食べてくつろいでいる人たちがいるかたわらでは、子どもたちが走り回ったりはしゃいでいて、中には座ってくつろいでいる私の頭に上る子もいました(真間小学校1年生)。また、2人の児童が「逃走中」なるテレビ番組を模した遊びをしたいと私に言い、逃走する児童を、ハンターの私が追跡しました。家族や親戚ではない子どもたちと遊ぶことがほとんどないので、新鮮な体験でしたね。

フリースタイル市川は、今後も地域で活動する自治会や市民団体(NPOなど)、学生グループ、企業の皆さんなどと、このようなかたちでコラボレーションしたり、活動をサポートしていきたいと思っています。

真間小パパの会の高宮さんが話していた、自分たちが楽しいと思うことをすることで、一緒に活動したいというメンバーが参加してくれたり、そんな大人を見た子どもたちには何かを感じてもらいたい、ということを噛みしめています。私たちもそのような気持ちで活動していきたいものです。

それでは、皆さん、次回の「いちカイギ」(第23回いちカイギ~ニューボロいちカイギ~)でお会いしましょう!

ポッドキャスト !ka !ch!kawa (イカ市川)第165回『よいしょ!よいしょ!』で、餅つき大会の模様をお聴きいただけます。

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〈注釈〉

※1:根本ねもと自治会の「根本」は、かつての字名です。『市川市国府台における砲兵隊・工作隊の記録』という書籍には、次のような記述があります。

市川市は軍隊がきて発展した町である。その中心が根本商店街である。「根本」とは、根の本であり、一番はじめを意味している。根本商店街には軍に物資を納入する店があり、兵を相手とする店があった。小林トーフ店、秋元八百屋、宇田川薪炭店などは軍に納入した店である。常盤湯の裏側に、2~3軒飲み屋があり、兵を相手とする女達がいた。「モンパリー」という店もあった。ぜんざい屋も2軒位あった。
根本商店街をぬけると市川広小路につきあたり、役場・郵便局・警察署が千葉街道にそってあった。市川小学校のそばに憲兵隊の建物があり、馬が飼われていた。
常に2千~3千の兵がいた国府台は、敗戦に伴い兵がいなくなり、根本商店街はさびれた。市役所は八幡に、警察署は三本松に、郵便局は平田1丁目に移転した。現在、繁華街は市川駅前や本八幡駅前に移っている。

出所:『市川市国府台における砲兵隊・工作隊の記録』(武井順一著、1997年1月発行)※「市川里見公園新聞」第33号 2007年12月30日(日) 、http://kinouchi.web.fc2.com/satomi01/news_file07.html(2023年1月28日閲覧)に掲載されている情報を参照

市川市が発展した頃の中心地が根本だったということです。

なお、上で引用した文章の存在を知ったのは、何を隠そう、千葉県の郷土歴史家・明里さんのブログ「Deepランド」の根本に関するこの記事です。

Deepランド
「根本発展会」三業地が発展した街。市川の花街の歴史について -真間⑹(2020年12月4日)
https://deepland.blog/ichikawa-nemoto/

Deepランドについては、以前に「ローカルメディア漫遊記」で取り上げました。

太平洋戦争(最近ではアジア・太平洋戦争と表記することが多いのかもしれません)の末期、アメリカ軍による空襲の被害を抑えるために、人口が多い場所、住宅が密集している地域では、疎開が行われましたが、以下の文章からわかるように、根本には家屋が多く、人口が多かったことがわかります。

ところで、疎開というと、集団疎開や縁故疎開のような学童疎開を想起する人がほとんどではないかと思いますが、市川市でも行われた、別の疎開があったのをご存じでしょうか。

市立市川歴史博物館『企画展図録 戦時下の市川市域―小都市の防空態勢を中心に―』平成9年3月31日発行(1997年3月31日発行)によると、空襲による火災の延伸を防ぐために、家屋をあらかじめ破壊して間引いておく、建物強制疎開というものがあったということです。強制的に間引くのです。空襲の場合は、家屋の崩壊と住民の死傷という被害が想定されますが、この建物強制疎開では家屋を自主的に破壊するわけで、空襲の被害を抑えるためとはいえ、犠牲が大きすぎるやり方だと思います。

市川市では、昭和20年(1945年)の6月から8月にかけて、人口3万人以上の都市に適用された間引疎開が、根本・真間・新田・市川地域で措置が実行されたそうです。

出所:特定非営利活動法人フリースタイル市川公式Webサイト、「【コラム】戦後77年、家族のもとに帰還した日章旗」(2022年8月29日公開、2022年8月30日更新)、https://fs-ichikawa.org/no_war_20220829/、2023年1月28日閲覧