源流 Vol.5 渡慶次 康子さん

源流

渡慶次 康子さん

放課後児童クラブぴいす本八幡 施設長
NPO法人市川子ども文化ステーション元理事長(2004~2020年)
市川子どもわくわくネットワーク副代表
NPO法人いちかわ子育てネットワーク理事
こども環境アドバイザー(こども環境学会認定)
NPJ認定ファシリテーター
市川市子ども子育て会議委員(2017年~)

①放課後児童クラブぴいす本八幡について

―――本日はお忙しいところお時間を頂きありがとうございます。渡慶次さんといえば市内で子供に関する活動を多くされていらっしゃるイメージですが、まずは現在施設長として運営に関わっている「ぴいす本八幡」について伺いたいと思います。開設後3年目に突入されたとのことですが、当初考えていたイメージと比べていかがですか?

文化ステーションでの活動が長く、それまではイベントを通じて、また居場所づくりとして子どもと関わってきたのですが、多くても月に数回程度で日常的には関わってはいませんでした。毎日子どもと関わっていくことで、いままで積み重ねたことをここで活かせるという理想を持っていました。でもいざ開いてみると、まー大変大変(笑)

まずはコロナ禍という一番大変な時期に開設したことが大きいですね。いきなり学校が休みになり、朝から夕方まで行き場が無くて初めての知らない学童に来る子どもたち。こちらも開設したばかりでノウハウも乏しい。感染予防のためふれあい遊びもできずどうやって仲良くなろうか悩みました。最初の1カ月はお互い探り合いだったのですが、子どもたちも様々なストレスを抱えていたのでしょう、徐々に荒れてきたんです。

それまでは、「まずは子どもの全てを受け入れよう。そして子どもの事は子どもに聞こう」ということを理想に掲げていたのに、それが全く通じない。そもそも子どもたちは「話し合う」ということを殆ど経験してきていないのでは?と思いました。学校や家庭でも時間単位で行動が決められていて、それに沿って行動することが求められていたんですね。一番印象に残っているのは「あなたはどうしたらよいと思う?」と聞いた時に「なんでそんなこと私に聞くの?」という怒りの言葉が返ってきたこと。話を聞いて一緒に考えていこうと思っていたことが根底から覆された想いでした。

決められることには慣れているが、自分たちで決めることには慣れていなかった。毎日反抗的で荒れている子どもたちと向き合っていた時期でした。今でもスタッフの間で話すのは、「あの大変な時期を乗り越えてきたから、どんなことが起きても大丈夫だね(笑)」と。

―――それからどのような変化があったのですか?

 子どもたちの難しさだけでなく、スタート時はわたしたちスタッフも思いを共有しきれていなかった部分もあったと思います。いったいどこまでを子どもの自由にさせていいか、もしかしたらもっと決まりを作るべきなのではないかと考えるスタッフもいる中、メンバーとして一緒に手伝ってくれているプレーパークを運営している和田さん(※注1)に相談しました。和田さんはフリースクールに勤務していたことがあり、そこでも「かなり荒れている子がいたけど、ひたすら待っていた」と話してくれました。おかげで、これまでの「まずは子どものありのままを受け入れる」という思いに自信を持つことができ、「子どもと信頼関係ができるまで待とう」と決め、その思いをスタッフ全員で共有していきました。また、最初の場所が環境的に学童を運営するには厳しかったので、開設して4か月目に場所を移転し、子どもたちと過ごす環境がとても良くなったことで、気持ちにも余裕が持てるようになりました。

学童の運営に関しては、たっきー学童の橋口さん(※注2)に毎月のミーティングに来てもらい、具体的なアドバイスをもらったりもしましたね。今でも困った時は相談したりしながら、学童の先輩として頼りにしています。

2年目には多くの1年生が入ってきて子どもの人数が増えたこともあり、雰囲気的に再スタートを切ることができました。嬉しいことに、大変だった子も1年経ってすっかり打ち解けてくれるなど、少しずつ成功事例も増えてきて、その後も紆余曲折はありましたが、子どもたちと、そして保護者さんたちと少しずつ信頼関係も深まり、今では定員一杯になり、毎日賑やかです。

②NPO法人市川子ども文化ステーション

―――渡慶次さんと言えば「子ども文化ステーション」というイメージを持つ人も多いかと思いますが、2020年に理事長から離れていらっしゃいますね。そもそもどんなきっかけで関わるようになったのですか?

16 年間も理事長をやらせてもらいました。長かったです(笑)。最初は事務局員として採用され、その後2000 年頃までは事務局長をしていました。理事長になったのはその後です。
最初に関わったきっかけは、当時任意団体として活動していた「市川おやこ劇場(現市川子ども文化ステーション)」に近所の友達に誘われて参加したことです。舞台を観に行ったんですね。ちょっと面白いなと思って会員となったのですが、ある時会費が100円上がることになり辞めようかと思ったこともありましたが、その時に誘ってくれた友達の顔が浮かんで踏みとどまった(笑)。そうして続けているうちにとても楽しくなってきたんです。理由はいくつかあるのですが、まずは子どもと一緒に出かけられること、よそのお兄さんお姉さんが子どもと遊んでくれること、そして私自身も「〇〇ちゃんのお母さん」ではなく個人としてその場にいられることでした。

その後運営委員会に誘われて参加してみたら、すばらしい先輩たちがたくさんいて、当時まだ批准される前だった「子どもの権利条約」について学んでいたり、活発な議論がなされていて本当にすごいなと思ったんです。子育てについてもずいぶん悩みや愚痴を聴いてもらいました。その頃ちょうど事務局を募集していたので、どうせ仕事をするならやりがいのある仕事がしたいと思って、「やりたい」と手を挙げたのです。

―――市川おやこ劇場を観に行ったことがきっかけになったと。会費の100円値上げに耐えてよかったですね(笑)さて、子ども文化ステーションさんといえば「ミニいちかわ」がよく知られていますが、ミニいちかわについても少し聞かせて下さい。

 日本で初めて子どもがつくるまちを開催したのは佐倉市の「ミニさくら」で、そこに文化ステーションの勝部さん(※注3)が子どもたちと一緒に参加して、早速「市川でもやろう!」と盛り上がり、2003年に第1回目を行徳で開催しました。私自身は、3年目くらいから本格的に関わるようになり、全国で子どものまちをやっている人たちと交流したりしていく中で、「ミニいちかわ」は他の地域からも注目されるようになり、見学者が来られたりもしました。「ミニいちかわ」を参考に他の地域でも多くの「子どものまち」が開催されるようになったのはとても嬉しいですね。今年で20 年目になるのですが、基本的な部分は変わっていないと思います。

コロナ禍で 2020 年は、毎年2か所開催しているうちの1か所は中止になり残念な思いをしました。でも昨年開催したときの子どもたちの笑顔や喜びの 声を聞いたら、やっぱりやっていかなくちゃ!とまた想いを強くしました。 ミニいちかわは子どもと大人をつなぐことができるイベントなんです。なんとなく自分の子の意見は流してしまっている大人でも、よその子の話は聴ける。そこで子どもの発想や行動、魅力を発見することができる。また、子どもも色々な大人に出会うことができ 「こんな面白い大人もいるんだ」なんて発見もある。両方が楽しめるイベントってなかなか無いですよね。

―――確かにそうですね。私も娘と参加させてもらい、とても楽しかったです。やはり渡慶次さんは元々子供が好きで、問題意識をもっていらっしゃって、友達や仲間が多く、自然と市川子ども文化ステーションに繋がっていったんですね。

いいえ。全然違います(笑)。実は市川おやこ劇場に参加した当時の私は、組織が嫌いでどちらかというと一匹狼タイプでした。ですからそんな場面を昔から避けていたこともあったと思います。それが市川おやこ劇場には、赤ちゃんから小中高生、大人まで本当にいろいろな個性を持った人たちが平等に参加していて、お互いの個性を認め合いながら意見を交わし合う場面に出会ったり、「対話」していくことのすごさを身をもって感じることが出来たんです。 それまでは自分の気持ちを表現することなどは全く苦手で、いつもなんとなく冷めていたのですが、舞台を我が子と一緒に見た時に、素直に感動できている自分を客観的に認めることができた。そして子どもと遊ぶことを心から楽しいと思えた。市川おやこ劇場に出会わなければ小さな殻に閉じこもったまま「孤」育てをしていたと思います。ここで出会った人たちに、子どもも私もいっぱい育ててもらった気がしています。

③ご自身の結婚・子育て・幼少時代

―――渡慶次さん という名字は沖縄に多いですよね。旦那さんは「ウチナンチュ」だと思いますが、渡慶次さん自身は「ヤマトンチュ」ですか?

 わたしは静岡県の浜松出身、夫は沖縄の宜野湾市です。当時は沖縄の人は若いうちに仕事のため に内地に出てくることが多く、職場で出会いました。21 歳のときに結婚したのですが翌年出産しました。いわゆるデキ婚(笑)

―――今年は沖縄返還50周年です。旦那さんの出身地であるわけですが、何か沖縄に対する想いなどありますか?住まわれたこともあるのでしょうか?

 住んだことはありません。でももちろん何回も行っています。義母が本当に素敵な人で、 明るいし、よく泣くし、よく飲むし(笑)。大好きです!あと、沖縄の人って(もちろん全員ではありませんが)遊ぶために生きているのでは?と思う事があります。お給料もらったら仕事休んで数日間は遊んでいるみたいなこともよく見かけます。辛い事もあると思うのですが、いつも笑顔が絶えない。そういうのがいいなと思っています。

夫の実家は宜野湾市なので米軍基地が近い。でも基地に対してそれほど否定的ではありません。叔母は米軍さんと結婚していていた事があるし、基地の中で働いている人がいたり、商売している人もいるでしょう?捉え方は人によって様々です。でも、沖縄に行くと地元の新聞の1面は今でも米軍基地や自衛隊の記事ばかり、まだ戦後が続いていることを実感します。

―――いずれは沖縄に移住されますか?

 夫はやっぱりいずれ帰る気満々ですよ。 これはたまたまなのですが、実は娘も沖縄の人と結婚して沖縄に移住しました。面白いですよね。小さい頃からよく沖縄に行っていて、子どもたちはみんな沖縄が大好きです。もちろん私も大好きなので、いずれは行きたいと思っています。

―――私も沖縄大好きです。移住なんて想像したら、ちむどんどんします。
渡慶次さん自身は静岡出身と伺いました。では幼少時代の話を少し聞かせて下さい。

 孤立していました。母子家庭で、とにかく母に心配をかけたくないという想いが強く、良い子をひたすら演じていました。そして当たり前のように貧困でした。幼稚園の頃に突然父親がいなくなり、母は一人で3人の子を育てるためにずっと働いていました。夏休みなど、私は親戚を頼って預けられたりしていたので、とにかく一人で何でもできないといけない環境でした。

―――孤立していた・・・自立が早かったとも言えますね。

 でも、今思うと浜松って昔は地域がすごくしっかりしていたと思います。当時、まちぐるみでのお祭りがあって、子どもたちは全員子供会に入っていて、祭りに向けて女子は踊りを練習し、町中を踊って歩く。男子は張りぼてのお神輿を作って町中を練り歩く。もちろん大人もみんな祭りに参加していました。子どもたちのことは青年会が面倒を見てくれて、貧困家庭も関係なく全員が参加できる。地域が一体となっていましたね。もしかしたら今、子どもに関わっている私の原点かもしれません。小学生は「踊り」、高学年になると「太鼓が叩ける」、 中学生になると「笛が吹ける」みたいなステップがあって、自然と小さい子はお兄さんお姉さんに憧れ、目標にしていたと思います。

―――小・中・高と何か夢中になったことなどはありますか。

 友達とつるむことが苦手だったので、一人でいることが多く、自分と向き合う時間がひたすら多かったと思います。中学の部活はテニス部でしたが、高校に入って強豪校だったので年中無休の部活と聞いて、3日でやめました(笑)。 小学生の頃は「想像・創造」ばかりしていましたね。ものを作ったり物語や詩を書いたり、手紙もよく書いていました。 転校が多かったので友達も少なく、みんなの輪の中にいてもなんだか居心地が悪いと思ってしまう。心から楽しめない。そのあたりが自分に欠けている部分だったかもしれませんね。高校2年の時にも転校したのですが、多感な時期だったこともあり、とても辛かった記憶があります。親友というものも作りづらかった。

―――今の渡慶次さんのイメージからかけ離れていて少し驚きました。地域での活動が長く広くなり、色んな人や団体から相談を持ち掛けられることも多いのではないかと思いますが、面倒に感じることはないですか?

 今、なんだかとても縁を感じています。「ぴいす本八幡」を運営している中でも、必要な時に必ず素敵な人が現れてつながってくれている。そんな出会いを大事にしたいなあと思っています。

私自身、結婚出産を経て少しずつ成長し、ある時から自分を「解放」できるようになったのではと思っています。きっかけは前述の市川おやこ劇場です。とっても学びが多かったですね。活動を通じてとにかくいっぱい遊んできました。遊ぶことで、子ども時代をひとつづつ取り戻してきたように思います。『遊びこそが解放』だということを実感しています。

城谷さんは「アフタフ・バーバン」って知っていますか?ぜひ調べてみてください。とても面白い活動をしていますよ。 市川おやこ劇場に関わるようになってから色々なワークショップに参加しました。その中で特に印象的だったのが、このアフタフ・バーバンの方の6回くらいの連続ワークです。目を閉じて後ろにいる人に体を預けて歩くという回があって、とても心地よく歩くことができたんです。「あ、私ってこんな に人を信じることができる」って、とても嬉しかった。そしてそんな自分を「私ってそんなに悪くないな」と思うことが出来たんです。

文化ステーションの事務局に入った頃は、「自分のことを嫌い」と思っていたのですが、1つずつ殻が剥がれていくかんじがありました。遊ぶ中から本当に大きな気づきや学びがあるなって思います。『頭で学んだ、覚えたことは忘れてしまいますが、体で感じたことはなかなか忘れません』そんな体験がミニいちかわにも繋がっていると思います。「ミニいちかわ」にサポーターとしてお手伝いしてくれる大人の方たちが、子どもと関わることで、固い表情だった人がどんどん変わっていく場に何度も出会いました。子どもの頃の「わくわく」を取り戻しているような、まさに遊びが固くなってしまった大人の心を柔らかくしてしまうんですね。大人も大きな気づきがあるのが「ミニいちかわ」なんです。

④10年後に向けて

―――最後になりますが、10年後の市川子ども文化ステーションそして渡慶次さんご自身の未来についてどんな妄想をしているか聞かせて下さい。

 自分が理事長から離れたこともあるのですが、いま団体としては変わり目だと思っています。想いをもったボランティアさんに支えられここまで来て、今でも支えて下さる方は多いのですが、規模も大きくなり持続可能なやり方を考えていかなければなりません。遊びながら、楽しみながら、子どもも大人も笑顔になる活動を実践し続けていきたいですね。子どもが育つ環境を何とかしていきたいと活動しているやわたの森 Kidsの三浦さん(※注4)や、前述のたっきー学童の橋口さん、他にも子どもも大人も笑顔になる社会にしていきたいと思って活動している方々ともコラボしていけたらいいなあと思っています。

私自身の10 年後は、文化ステーションもぴいす本八幡も何かしらで関わってはいたいのですが、応援する側に回りたいと思っています。そして住み慣れた市川と大好きな沖縄で半分ずつ暮らしてみたいかな。沖縄って飛行機の便数も多いし、チケットも意外と安かったりして、遠いようで近い場所なんですよ。

●NPO法人市川子ども文化ステーション
https://www.kodomobst.org/
※「子どもがつくるまち・ミニいちかわ」「放課後児童クラブぴいす本八幡」は、こちらのHPをご参照ください。

●文中の登場人物
(※注1) 和田京子さん:プレーパーク市川冒険あそびぼ代表
(※注2) 橋口 樹さん:たっきー学童代表
(※注3) 勝部久美子さん:NPO法人市川子ども文化ステーション理事
(※注4) 三浦雅代さん:やわたの森Kids代表

≪編集後記≫
 市川子ども文化ステーションといえば市内でも有名な団体で、ミニいちかわを始め大きなイベントを多数開催されており、渡慶次さんのお名前を知る人も多いと思います。
今回、渡慶次さんの源流を辿り、幼少時代の体験から結婚・子育て期に至るまで自分に自信が無かったと聞きとても驚きました。そんな中で遊びを通じて自身を解放すること、人と繋がること、信じること、良い親子関係を築くことなどを学び、現在に至る大きな流れができたことを話してくれました。

 話の流れの中で繰り返し出てくる「遊び」というキーワードがとても印象に残っており、感情と記憶のメカニズムからも、楽しいと感じたときに良い記憶が記録されることは何となくイメージできますし、子育ての場面だけでなく我々大人の成長にも「遊び」は欠かせないものではないでしょうか。

 後継者に繋いでいくことがこれからの課題だとお話されていましたが、きっとそこにも「遊び」が存在していて、素晴らしい活動が今後も受け継がれていくのだと思います。

書いた人:カブ城谷

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