【市川ちょっと話】市川の桃

コラム

公開日 2023年3月3日

通算13回目の「市川ちょっとばなしです。

今日は3月3日、の節句ですが、皆さん、ソングはお好きですか?

出所:井上雄彦『SLAM DUNK 完全版 1』 (ジャンプコミックス デラックス、集英社)

市川市の名所が登場する、こんなソングがあります。

『千葉県一周唱歌』(明治41年, 1908年)

市川駅のかなたには

音に聞ゆる鴻の台(こうのだい)

北条、里見の古戦場

今は国守(くにも)る野砲兵

栄門高く固めたり

線路に近き

梨の畠も実を結ぶ

その収穫を思い遣り

八幡の森も知らなくに

西よりたなびく塩竃(しおがま)の

烟(けむり)は何処(いずこ)行徳の

里を遥(はるか)に眺めつつ

日蓮宗な檀林と

世に聞こえたる中山の

法華経寺も早や過ぎて

船橋、津田沼両駅の

出所:『市川風土記 : 市民の郷土史読本』(市川ジャーナル編集部編、1974年)

市川市のことを歌ったソングといえば、現代いまでは、市川市の小さな楽団バンド「ノスタルジー&ルミエール」が創造し、演奏&歌唱していますが、かつては『千葉県一周唱歌』で歌われていたのですね。

ノスタルジー&ルミエールのソング
https://soundcloud.com/user-26725798

1908年、今から115年前に発表された千葉県にまつわる歌です。1894年(明治27年)に開業した市川駅や船橋駅、翌年に開業した津田沼駅も登場します。

この歌が発表された明治41年(1908年)の9月5日、第一師団の野砲兵第二旅団に属していた野砲兵第十五連隊が、世田谷から国府台に移転してきました。東京の人口増加と市街地の発展により野砲兵の訓練に適さなくなったことが、移転の理由です。軍都として栄えた国府台、千葉県一周唱歌で「今は国守(くにも)る野砲兵」と歌われています。

この歌では、現在の国府台が「鴻の台」と表記されていますね。今でも、国府台にある建物の名前(シャトー鴻ノ台、鴻の台マンション、サンヒルズ鴻の台)などに、この表記を見ることができます。「鴻之台(鴻の台)」という地名は、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)のコウノトリにまつわる伝説に由来すると、市川市公式Webサイトで説明されていました。

さて、この歌の中には、

  • 八幡の藪知らず 
  • 行徳の塩田 
  • 中山法華経寺 
  • 市川の梨

が登場します。

藪知らず、法華経寺、梨は、今でも市川市を代表するアイコンです。しかし、行徳の塩田は、1929年から行われた整塩地整理の対象となり、昭和初期にはほとんどなくなってしまい、最後に残った塩田も1949年のキティ台風により壊滅しました(情報出所:「【行徳】【行徳塩田】」https://kyoudorekisi.com/area/chiba/detail/keywords/gyoutoku.html、2023年1月12日閲覧)

この歌の歌詞を読んだとき、私が「お!」と思った箇所は、「線路に近き林」です。

イメージ画像です。※ハナモモに囲まれたヒヨドリ。

梨だけでなく、も?

そんな疑問を抱いた私は、「市川の梨」ならぬ、「市川の」を求めて旅に出たのでした。

これは比喩であり、実際にはワールド・ワイド・ウェッブの大海をさまよったことに加え、市川市中央図書館で借りた本で桃について調べた程度ですが、それ(だけ)でも、色々とわかったことがありました。

というわけで、失われたを求めて、ノスタルジー鈴木と旅に出よう!

マルセル・プルースト著『失われた時を求めて①スワン家のほうへⅠ』
ジャミロクワイのアルバム『Travelling without moving』に添えられた邦副題は「ジャミロクワイと旅に出よう」でした。

参考:Travelling without moving (野村訓市氏がパーソナリティを務めるラジオ番組)
https://www.j-wave.co.jp/original/travelling/

※野村訓市氏の名前を見つめていると、訓市、言川市、、、、ヌ、ヌ・アントということでしょう、次第に「市川」が浮かび上がってきます!

イメージ画像です(桃の実)。

なお、引用している文章内の太字赤太字は筆者が強調のために施したものです。

* * * * *

菅野の地は林が点々とし春の花観望のため東京から多くの人を集めたという。

出所:『続・市川まちかど博物館』(いちかわ・まち研究会編、1999年)

 八幡は市川砂州上にあり、北部は真間の入江が広がる湿地で穀物の栽培に不向き。川上善六は寛保二年(1742)に、この「砂地」という地質にふさわしい農産物として梨の栽培を成功させる。その梨栽培の秘訣を村人にも教え、この地に梨栽培が広まり、「八幡梨」は江戸市場を賑わすようになる。

 の栽培も八幡の川上善兵衛が安政4年(1857)に埼玉県松伏町に行った折にの優良な種を買い求め、栽培に成功し、それが八幡、中山、葛飾、市川に広まる。

 苺は明治35年に新田の後藤弥五右衛門が試植に成功。大正時代の耕地整理で各所に島畑が激増すると苺が広まる。大正14年には千葉県農事試験場の大島技師が栽培した大島苺=千葉一号を改良して市川新田苺と好評を得る。昭和初期は東京市場の苺総取引量の20%が市川苺。

出所:観楽読楽(みらくどくらく)、「『市川の歴史を尋ねて』市川市教育委員会(綿貫喜郎著)」(2021年5月20日)※元の情報は、郷土読本『市川の歴史を尋ねて』(市川市教育委員会、1988年)による

今の不二女子高等学校、かつての不二洋裁、即ち、奥野木学園がある場所(葛飾八幡宮西鳥居の西側)は一面の畑であった。

八幡へ越してきた翌年(昭和二十一年)のことであったと思う。ある晴れた春の日、そこを通ると、辺り一面がパアット華やかに明るい雰囲気となっているのだ。見るとそこには一面に鮮やかなピンク色のの花が一斉に咲き競っていた。その華やかな明るい色合いは本当にまばゆいばかりで、その辺りはいつもとは全く違った別世界のように感じられた。それを見たとき、子供心にもそれは美しく、心が浮き浮きするように感じられたのを今でもはっきり覚えている。

しかし、美しいの花が見られたのはこの年だけであった。翌年、この畑は伐採され、土のグランドに変わり、やがてそこには不二洋裁学園の校舎が建てられた。

出所:終戦直後の八幡(市川市)」(佐藤勉、1996年3月30日)

明治十三年の二万五千分の一の地図をみても、市川の渡しあたり(現在の京成鉄橋のやや下流)に集落があるだけで、千葉街道沿いに家が点在するほかは、畑と梨畑が連なり、これにところどころ梅の林もあった。

菅野から八幡にかけては、あたり一面の梨畑で、それは「八幡・菅野は歯みがきいらぬ。梨の芯棒で歯をみがく」と歌われたほどであった。

真間駅のあたりには森があって昼でも暗く、時おり強盗が出たほどで、現在の京成八幡駅あたりには大正の初めごろまでの鳴き声が聞こえたといわれている。

また千葉街道からやや南に行ったところは、江戸川の土堤にかけて一面の田んぼが広がっていた。したがって明治十九年には東葛飾郡ではわずかに松戸と本行徳だけが、千葉県の市街と名邑(めいゆう)の中に顔を出しているだけであった。(松戸14位、本行徳17位)

こうした田園風景を見せていた市川に軍隊が進出してくると、町の様子が次第に変わっていった。町の人々の生活は軍隊の起床ラッパで明け、消灯ラッパで一日が終るといってよいぐらいになり、町の人たちに比べて軍人の姿がひときわ目につくようになった。国府台の坂下にある根本には、地元の商店ばかりでなく、東京の大きな商店の支店や出張所が軍隊相手に店を開き、のちには日用品や衣料品などを扱う商店も並ぶようになって、市川の人たちは買い物にわざわざ足を運んだほどであった。

出所:「市川―市民読本―[改訂版]」(編集者・発行者:市川市教育委員会、1979年3月31日発行)

これ↑と類似し、重複も多いですが、興味深い記述があるので、こちら↓も紹介します。

明治から大正のはじめにかけての市川は、戸数も少なく、土地の大半は田畑で占められていた。現在の国鉄の線路から南側は、行徳に近い土地に梨畑があったほかは、ほとんどが田んぼであり、その頃はまだ、後に「市川の朝摘苺(あさづみいちご)」として有名になった苺の栽培は行われていなかった。

また、市川から中山までの、国鉄と京成の線路にはさまれた土地は、今でこそ商店や住宅が軒をつらねて賑わっているが、当時は所々に藁屋根の農家が散在するくらいで、と梨の畑がつらなっていた。

真間川を中心にした一帯には水田があって、初夏の宵には蛙の声があたりに聞こえたものである。そして真間山上から眺めると、遠く江戸川の流れを背景に、果樹畑と田とが織りなす中を、黒い煙をはきながら汽車が通りすぎるのが見え、のどかな田園風景がくりひろげられていた。

ことに春には桜の花のあとを追って、の花がいっせいに美しい花を開き、道行く人の足を、しばらく止めさせずにはおかなかった。市川町一帯には、江東方面、遠くは横浜あたりから汽車や京成電車を利用し、あるいは汽船を使っての花を見にくる人で賑い、赤いもうせんを敷いた縁台を用意する茶店や露店も各所につくられた。真間山、手児奈、国府台の名所旧跡が、これに色どりをそえたのは言うまでもない。

出所:「市川―市民読本―[改訂版]」(編集者・発行者:市川市教育委員会、1979年3月31日発行)

新田、平田、菅野一帯は砂質壌土で、苺、、梨など果樹、果英類の栽培に適していた。

出所:『続・市川まちかど博物館』(いちかわ・まち研究会編、1999年)

この市東部地域は、古くは室町時代、八幡の庄の南端地域、谷中郷の若宮戸、北方、中山、高石神、古八幡と中沢郷の宮久保、奉免の各村で、近世においては江戸の台所として幕政300年の太平に浴していた市川も、慶応4年、戊辰戦争勃発の余波をまともに受け、八幡、高石神付近では新政府軍と旧幕府軍の銃撃戦で家屋も多く焼かれたようです。以降、東京に近いということで、朝出しできる市川は、、ブドウ、ビワ、イチゴなど果実の栽培が盛んになり、八幡の川上善六氏がナシを美濃の国から、また、川上善兵衛氏は葛飾郡松伏領からを移植し、の時期は東京方面から花見客が本市に大勢来られたと聞いております。

出所:市川市議会 2003年9月16日 会議録より、五関貞議員の発言、https://www.city.ichikawa.lg.jp/cou01/kaigiroku20030916.html

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ざっとこんなところです。

いかがで唱歌しょうか

今では総武線や京成線に乗って、上野公園に桜(主に染井吉野)の花を見に行く人が少なくありませんが、かつては、東京や横浜の方からも、わざわざ菅野あたりの桃林を訪れる人が多かったのですね。

『千葉県一周唱歌しょうか』をノスタルジー&ルミエールがカヴァーする可能性は低いですが、このリリックに新たにメロディを添えて、『シン千葉県一周唱歌』を創造クリエイトする可能性はゼロではありません。と、書きましたが、ペン先が渇かぬうちに、それを覆すことにはなりますが、それよりも、市川の桃という、失われてしまった果実、果樹、咲き誇る花、美しい景観に想いを馳せる唱歌ソング創造クリエイトし、演奏プレイする可能性の方が遥かに高いと思います。

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ところで、明日、2023年3月4日(土)に、河津桜を見ながら飲んだり食べたり話したり、古い蓄音機でレコード鑑賞をしたりできるイヴェント「水辺でチェアリング ~河津桜2023~」(無料)が、市川駅にほど近い(歩いて12分くらい)江戸川の堤防にて、開催されます。12時から15時くらいまで行われる予定ですよ。

詳しいことは、以下の記事をご確認ください。

主催:Mizbering Edogawa さとみ
音楽:てこな音盤倶楽部

明日の「水辺でチェアリング~河津桜2023~」には、筆者(ノスタルジー鈴木)も参加する構えです。この記事を読み、明日のイヴェントに参加する方は、是非私に「市川の桃の記事、読みましたよ!」とお声がけください。