公開日 2023年4月2日
※本稿は、2年前の2021年4月に他所に掲載した「八幡の藪知らずについて語るときに僕が語ること」と題した短文を基に、加筆修正したものです。
市川市に住んでいる、あるいは、棲んでいる皆様、こんにちは。
そうではない皆様も、こんにちは。
ノスタルジー鈴木です。
「行ってまいりましたよ、先日」
「何処に?」
「市立市川歴史博物館に」
「何をしに?」
「展示を見に」
「何の?」
「『葛飾八幡宮と八幡の藪知らず』の」
出所:ノスタルジー鈴木Aとノスタルジー鈴木Bの会話
と、いうわけで、(2021年4月に)行ってまいりました。
新型コロナウイルス感染症拡大によって開催時期が後ろ倒しになっていた『葛飾八幡宮と八幡の藪知らず』展に。
貴重な展示を見ることができ、市川駅から京成バスに乗って堀之内まで行った甲斐がありました。貝がありました、としても、ここではあながち間違いではありません。博物館は堀之内貝塚公園の入口にあるからです。
「博物館前」というバス停から歩いて歴史博物館に向かう道中は、葛飾八幡宮や藪知らずのある本八幡エリアとは全く異なる景観が広がっています。このあたりを「奥市川」と呼び、この地域を愛でる人たちもいると聞きます。小生も、薫風を浴び、プロテイン・バーをムシャり(むろん、ストリートで!)、立ち止まって野原に咲く花を眺めました。広い空の下で!
下に掲載している月岡芳年氏の作品、『不知藪八幡之実怪』(1881年)は、 『葛飾八幡宮と八幡の藪知らず』展で撮影可だったものですが、徳川光圀氏(右)が藪知らずの中に入ったことを神仙(中)、仙女(左)に、咎められている場面を描いたものです。
この錦絵は、歌舞伎『黄門記八幡大藪』の興行パンフレットに掲載されたものということです。
江戸時代には、「八幡の藪知らず」を模した迷宮式の藪を作って、入場料を取って人を中に入れ、無事に出てこられた暁には商品を贈るという興行場もあったそうです。無事に出てくることができなかったらどうなるのでしょうか。なお、この迷宮式の興行場は、明治10年頃に復活して大流行したそうで、八幡不知(やわたしらず)、八陣、かくれ杉などと呼ばれたということです※1。
平成初頭の頃、巨大迷路なるアトラクションが全国に登場したことを覚えていますが、それを小さくしたようなものなのか、あるいはお化け屋敷のようなものなのか。全国に藪知らずを模したアトラクション(興行場)があったというのは興味深いです。
このあたりのことについては、近い将来、「市川ちょっと話」の第14弾として記事を書く予定です。お楽しみに!
ところで、JR線の北側に八幡の藪知らずという禁足地があるわけですが、かつて(といっても数年前まで)、線路の南側にも禁足地があったことをご存知でしょうか?
今はもう廃墟ではないので、これ以上この話題を続けることはいたしません。
入ってはならないと言われている場所には何かがあるはずですが、その理由は必ずしも明示的であるとも限りません。藪知らずに入ってはいけないという、その理由についても、いくつかの説がありますが、決定的な理由はないと言えそうです。
ところで、このブログ記事の『八幡の藪知らずについて語るときに僕が語ること・改』という題名は、村上春樹氏の『走ることについて語るときに僕の語ること』を借用したものですが、村上氏の作品名自体が、レイモンド・カーヴァーの短編集『愛について語るときに我々の語ること』※2からの借用であることを知っておいても損はしないはずです(よ)ね。
レイモンド・カーヴァー氏
↓
村上春樹氏
↓
ノスタルジー鈴木
というわけで、本日はこの辺で。皆さん、八幡の藪知らずに迷い込まないよう気をつけてください。
関連記事
* * * * *
〈注釈〉
※1:Wikipedia 「八幡の藪知らず」より(元の出所:八幡不知の大流行『変態風俗史料』相馬二郎 著、金竜堂出版部、1938)。
※2:原題は“What We Talk About When We Talk About Love”。