【コラム】100年前に市川市でも起きた惨事を忘れない~関東大震災直後の朝鮮人虐殺~

コラム

本稿の公開日、2023年9月1日は、1923年9月1日に発生した関東大震災から、ちょうど100年目の日です。9月1日は「防災の日」として馴染みがあり、小学校時代には教室の椅子に敷いた防災頭巾をかぶって避難訓練をした人も多いと思います。

その関東大震災では多くの人が亡くなったわけですが、災害による死だけでなく、人の手による虐殺も起こっていることを知っている人も多いと思います。虐殺は、東京都内で多く起きてしまいましたが、千葉県内でも起きており、市川市も虐殺の現場となっているのです。

いくつか、関連する文章を紹介します。

まずは、内閣府中央防災会議の「災害教訓の継承に関する専門調査会」が2009年(平成21年)に出している「1923関東大震災報告書第2編」から、こちらの箇所を引用します。ちなみに、この報告書については、この後で紹介する文章内でも言及されています。

被災地では朝鮮人暴動の流言に基づいて民間の自警団による朝鮮人に対する暴行、虐殺など殺傷事件が起きていた。混乱の中、真偽を確かめられないまま、官憲も流言を事実と誤認し、行動した。このことが官憲自身の手による朝鮮人殺傷事件を引き起こし、また、自警団の暴走を助長する結果となった。3日朝、海軍の船橋送信所から呉鎮守府副官宛に打電された、内務省警保局長名の各地方長官宛電文では、東京附近の震災を利用して朝鮮人は各地に放火し、「不逞」の目的を遂行しようとしている、現に東京市内において爆弾を所持し、石油を注いで放火するものがある、既に東京府下には一部戒厳令を施行したので、各地においても充分周密な視察を加え、朝鮮人の行動に対しては厳密な取締を加えてもらいたい、と述べられていた(防衛省防衛研究所図書館所蔵,「大正12年 公文備考 巻155 変災災害3 震災関係2」所収の文書。姜徳相・琴秉洞編,1963,p.18にも採録)。流言は官憲が認定する形で、被災地はもとより、全国に拡大してしまったのである。

出所:内閣府Webサイト内の防災情報ページ、中央防災会議・災害教訓の継承に関する専門調査会報告書「1923 関東大震災報告書【第2編】」(平成21年3月)※以前は平成20年と記されていたが、後に誤りだとわかり、2023年になって平成21年に修正された。
https://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1923_kanto_daishinsai_2/pdf/9_chap2-1.pdf、報告書全体 https://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1923_kanto_daishinsai_2/index.html (太字は筆者)

官憲、つまり行政の役人がデマ(偽情報)を事実と誤認し、広めてしまったことで、多くの朝鮮人や、朝鮮人だと勘違いされた人々が虐殺されてしまったのです。

小池百合子東京都知事のふるまい(行動しないという行動)も、毎年、注目され、報じられています。

 関東大震災の発生から9月1日で100年となる。震災時に起きた朝鮮人虐殺の犠牲者を慰霊するため、毎年1日に東京都内で開かれている追悼式典に、小池百合子都知事は今年も追悼文を送らない方針だ。

 教訓を胸に刻むべき節目に、過ちを繰り返さぬ決意をなぜ明確に示さないのか。行政トップの責任を自覚すべきだ。

 追悼式は墨田区の公園で日朝協会などが1974年から開いている。石原慎太郎氏ら歴代の都知事は、知事名で追悼文を送付してきた。小池知事も就任した16年には「多くの在日朝鮮人の方々が、言われのない被害を受け、犠牲になられたという事件は、我が国の歴史の中でも稀(まれ)に見る、誠に痛ましい出来事」などとする追悼文を送ったが、翌年以降とりやめている。

 知事は今月18日の会見で「大震災で犠牲となったすべての方々に哀悼の意を表している」と述べた。だが、自然災害での死と人の意思による虐殺では意味が異なる。「犠牲者」でくくるのは歴史の現実から目を背けているようにも見える。2月の都議会では「何が明白な事実かについては、歴史家がひもとくものだ」とも話した。虐殺の有無を明確に語らぬ姿勢は、事実を否定する主張を容認していると受け取られかねない。

 「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ」といったデマを信じた人々による虐殺があったのは動かしようのない事実だ。政府の中央防災会議の報告書は「人為的な殺傷行為」と記述。都が72年に発行した「東京百年史」でも顔つきが朝鮮人らしいとか言葉が不明瞭というだけで「半死半生」の目にあわせ、「惨殺した」と記している。

出所:朝日新聞デジタル「(社説)虐殺から100年 都知事は目を背けるな」(2023年8月26日)、https://www.asahi.com/articles/DA3S15725563.html、2023年8月30日閲覧(太字は筆者)

「何が明白な事実かについては、歴史家がひもとく」という発言は、朝鮮人が虐殺されたという出来事は、明白な事実ではない可能性がある、とでも言わんばかりに聞こえます。

当サイトには以前にも関東大震災直後に市川市で殺された朝鮮人の人数や殺された場所について載せたのですが、本稿にも載せておきます。

市川市では(私が確認できた範囲では)下記の通り、25名の朝鮮人が殺されています。

関東大震災直後に市川市で発生した朝鮮人殺害(一部船橋市を含む)
1923年9月2日 南行徳村下江戸川橋際 1名 騎兵15連隊の2名の兵士 ※a
1923年9月4日 南行徳村下江戸川橋北詰 2名 軍曹が兵士2名に命じて ※a,b
1923年9月4日 南行徳村下江戸川橋北詰 5名 軍曹が兵士2名に命じて ※a,b
1923年9月4日 船橋町九日市 38名 ※c
1923年9月4日 中山村若宮 13名 ※d
1923年9月5日 中山村若宮 3名 ※d
1923年9月6日 市川町字新田389番 1名 ※e

※a,bの情報出所:日本弁護士連合会、「関東大震災人権救済申立事件調査報告書」(2003年8月25日)、http://www.azusawa.jp/shiryou/kantou-200309.html、2022年8月10日閲覧

※a,bの元資料:
a:『関東戒厳司令部詳報第三巻』 所収 「第四章 行政及司法業務」 の 「第三節付録」 付表 「震災警備の為兵器を使用せる事件調査表」
b:『震災後に於ける刑事事犯及之に関聯する事項調査書』 所収 「第十章 軍隊の行為に就いて」 の 「第四 千葉県下における殺害事件」

※c,d,eの情報出所:内閣府Webサイト内の防災情報ページ、中央防災会議・災害教訓の継承に関する専門調査会報告書「1923 関東大震災報告書【第2編】」(第4章 混乱による被害の拡大、第2節 殺傷事件の発生、1 殺傷事件の概要、(1) 朝鮮人への迫害)(平成20年3月)、https://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1923_kanto_daishinsai_2/pdf/18_chap4-1.pdf、2022年8月10日閲覧、報告書全体 https://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1923_kanto_daishinsai_2/index.html

※c,dの被害者数の情報出所:
憲さんの日々随筆、「船橋における関東大震災の朝鮮人虐殺」(2022年7月11日)、https://ameblo.jp/ken-hatabo/entry-12752825156.html、2022年8月10日閲覧

※c,dの被害者数の元資料:
千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者悼・調査実行委員会千葉県歴教協、船橋支部 平形千恵子「船橋における関東大震災時の朝鮮人虐殺事件(訂正版)」(2013年2月23日、24日。千葉県歴教協・安房集会「平和と民主主義分科会」で報告)

ということを書いても、「本当に虐殺はったのか?」と疑問を持つ人がいるかもしれません。2014年に放送されたラジオ番組(TBSラジオ『荻上チキ・Session22』)で、虐殺のことを取り上げた際にも、番組にはそのような質問が寄せられていました。番組で語られた内容を紹介します。なお、引用した内容には残酷な表現もあるので、以下の引用箇所を読むかどうかはご自身でご判断ください。

荻上 今日はまず、この質問を読みたいと思います。

「今日のテーマですが、本当に虐殺はあったんでしょうか。このようなテーマ設定をすることこそが、無実の日本人を貶めることに繋がると考えないのですか」

というメールをいただきました。昨今、朝鮮人虐殺はそもそもなかったのだ、という主張も出ていますので、その妥当性は番組内で少し取り上げたいと思いますが、こうした意見は山田さん、いかがですか。

山田 (朝鮮人虐殺は)ありました。あったというより、他ありません。実に残酷な殺し方をしたんですよね。特に女性に対しては、陰部をわざと刺すとか、妊婦だと腹を裂いて、中の胎児を引き出すとかね。

男性に対しても、竹やりで殺したり、火の燃えている中に投げ込んだり、そういうことをやっているんですけど、女性に対する殺し方は更に残酷でした。民族差別と女性に対する性的な差別が、二重になっていたと思います。

加藤 僕からもそのご質問に対しては、簡単にお答えできると思います。たぶんその方は忘れているんでしょうけれども、昔から、歴史の教科書で朝鮮人虐殺に触れていないものはほとんどないんですよね。中学か高校で目にしているはずなのです。今でも、中学の歴史教科書で朝鮮人が虐殺されたことに言及していないのは、一番右寄りの自由社の教科書だけです。

あるいは、内閣府中央防災会議の「災害教訓の継承に関する専門調査会」で出した「1923関東大震災報告書第2編」の中でも、「混乱の拡大」「殺傷事件の発生」というタイトルで、虐殺をメインに取り上げて、それがどのように展開したかということを論じているんです。

荻上 2009年だから、自民党政権の時ですよね。

加藤 そうですね。この報告書では、虐殺によって殺された人々(朝鮮人と、誤殺された日本人、中国人)の数は、震災全体の死者数の1%から数%に上るだろうとまとめています。当時震災で死んだ人は10万5000人ですから、1%はほぼ1000人です。そういう規模の虐殺があったことを、内閣中央防災会議の報告書が明らかにしているわけです。つまりこれは、歴史学の常識なのであって、まともな歴史学者の範疇に入る人で、「朝鮮人虐殺はなかった」と言っている人は一人もいないのです。

また、震災後の2年後に出た警視庁の報告でも、「朝鮮人が暴動を起こした」といった話が流言であって事実ではなかったということを前提に書かれています。そうした流言がどのように発展し、どのように広がっていったのかということも分析しています。多くの朝鮮人が殺傷されたことについても書いています。

当時のメディアでもそれは同様です。例えば、戦前を代表する保守派のジャーナリストである徳富蘇峰も、「かかる流言飛語―即ち朝鮮人大陰謀―の社会の人心をかく乱したる結果の激甚なるを見れば、残念ながら我が政治の公明正大と云ふ点に於て、未だ不完全であるを立証したるものとして、また赤面せざらんとするも能はず」と書いています。

要するに朝鮮人虐殺が実際にあったこと、朝鮮人暴動などデマだったことは当時から常識だった。今になって、暴動はデマじゃなくて本当にあった、虐殺はなかったというようなことを言い出すのは、90年経って当時を知る人がもはやこの世にいなくなったのと、それをいいことに歴史を改ざんしようとする人々が増えたということです。

出所:シノドス公式Webサイト「関東大震災における朝鮮人虐殺――なぜ流言は広まり、虐殺に繋がっていったのか 加藤直樹×山田昭次×荻上チキ」(2014年11月10日)https://synodos.jp/opinion/society/11601/、2023年8月30日閲覧(太字は筆者)

本稿では、100年前の今日、発生した関東大震災の直後に飛び交ったデマを信じた人たちが、多くの朝鮮人や、誤認された中国人、日本人を虐殺した、という事実を紹介しました。

市川市からは、国府台駅、市川真間駅、菅野駅、京成八幡駅、鬼越駅からであれば、京成線で簡単に行くことのできる、八広駅(墨田区八広、荒川の右岸)から、歩いて数分のところに、殺された朝鮮人を追悼する碑(関東大震災 朝鮮人殉難者追悼之碑)があります。2020年6月7日にそこを訪れた際に撮影した写真を掲載します(冒頭の1枚も同日に撮影したものです)。

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本稿の公開日である2023年9月1日から、映画館で公開される『福田村事件』は、100年前の関東大震災の直後に発生した同名の事件を描いた作品で、ドキュメンタリー映画作家として知られる森達也さんの初劇作品です。

私は劇場鑑賞する予定です。本稿を読んで、震災直後の混乱時に起きた事件に興味を持った人は、是非ウォッチしてみてください。残念ながら市川市内の映画館(TOHOシネマズ 市川コルトンプラザ、イオンシネマ市川妙典)では、現時点では上映予定はないのですが。

1923年9月1日11時58分、関東大地震が発生した。そのわずか5日後の9月6日のこと。千葉県東葛飾郡福田村に住む自警団を含む100人以上の村人たちにより、利根川沿いで香川から訪れた薬売りの行商団15人の内、幼児や妊婦を含む9人が殺された。行商団は、讃岐弁で話していたことで朝鮮人と疑われ殺害されたのだ。逮捕されたのは自警団員8人。逮捕者は実刑になったものの、大正天皇の死去に関連する恩赦ですぐに釈放された…。これが100年の間、歴史の闇に葬られていた『福田村事件』だ。行き交う情報に惑わされ生存への不安や恐怖に煽られたとき、集団心理は加速し、群衆は暴走する。これは単なる過去の事件では終われない、今を生きる私たちの物語。

出所:映画『福田村事件』公式Webサイト、https://www.fukudamura1923.jp/、2023年8月30日閲覧(太字は筆者)

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執筆日 2023年8月30日
公開日 2023年9月1日(関東大震災が発生してから100年目の日)