【市川ちょっと話】国府台球場でプロ野球

コラム

2018年の12月に、市川市と千葉ロッテマリーンズは「スポーツを通じた地域振興・地域貢献に関するフレンドシップシティ・プログラム協定」を締結することを発表しました。

今回新たに市川市とフレンドシップシティ協定を締結することになりましたことを大変うれしく思います。
市川市は歴史と伝統ある都市です。球団といたしましても1953年から国府台球場を二軍の練習場として使用していた時期がありました。1967年まで京成国府台駅近くに選手寮もあり常に20名を超える選手が寝食をともにしており、ロッテ球団にとって市川市はご縁のある特別な土地です。
そのご縁ある国府台球場の改修計画があると伺っております。球場改修完了の暁には、千葉県内で開催する二軍主催試合拠点のひとつとしてより多くの試合を開催し、市川市民の皆様をはじめとする多くの方にプロ野球の迫力あるプレーを間近で楽しんでいただきたいと考えております。

出所:千葉ロッテマリーンズ公式Webサイト、「市川市とのフレンドシップシティ協定締結の件」(2018年12月18日)内の山室晋也球団社長のコメント、https://www.marines.co.jp/news/detail/00003552.html、2022年8月23日閲覧(太字は筆者)

千葉ロッテマリーンズは、前身球団である、毎日オリオンズ、毎日大映オリオンズ、東京オリオンズの時代に、国府台駅付近に選手寮を置き、国府台球場がを二軍練習場として使用していたということです。

球団がマリーンズとなった現在は京成グループナイターが行われ、新京成電鉄ではマリーンズのラッピング・トレインが走り、京成バス車内ではマリーンズの選手が車内放送を担当したりと、京成グループと球団の関係には浅からぬものがありますが、京成電鉄の本社も現在は市川市にあるなど、千葉ロッテ球団と京成グループ、市川市は、無関係とはいえない状況になっていますね!

1992年以降は球団の本拠地が市川市からも近い千葉県千葉市にあり、観戦に行きやすいのですが、4年前にフレンドシップシティ協定が締結されたことで、市川市民にとって千葉ロッテマリーンズが一層身近な存在になる機運が高まっていると言えそうです。

現在、再整備工事中の国府台球場で二軍戦を開催する計画もあるそうで、楽しみですね。二軍の本拠地はさいたま市(浦和)ですが、国府台球場で、二軍の本拠地が鎌ケ谷市である北海道日本ハムファイターズと対戦することもあるかもしれません。

国府台球場の再整備後イメージ。画像出所:市川市「国府台公園再整備基本設計(建築基本設計)」(平成31年3月)、https://www.city.ichikawa.lg.jp/common/000306997.pdf

上の画像は、市川市公式Webサイト内の「国府台公園再整備基本設計」という資料から引用しました。再整備後の国府台球場のイメージですが、正直なところ、匿名性の高い球場という印象を受けますね。市川らしさ(梨モチーフ?!国府台の歴史を感じるような何か?)が刻まれたりすると、市民にこれまで以上に親しまれるのではないでしょうか。

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さて、久々に更新する、「市川ちょっと話」ですが、国府台球場でかつてプロ野球の公式戦が開催されたことがある、という事実を取り上げます。

国府台球場が完成した1950年に4試合、4年後の1954年に3試合、計7試合行われました。

記念すべき最初に試合は、1950年4月30日に行われた、国鉄スワローズと大洋ホエールズの5回戦でした。両チームとも、プロ野球が2つのリーグに分裂したタイミングである、この年に設立された新しいチームでした。

先攻ホエールズ、後攻スワローズで行われた試合は、開始早々の1回表に9点を先制したホエールズが、最終的に15対7で勝っています。この試合でホームランを放った唯一の選手、ホエールズの4番、藤井勇選手は、日本のプロ野球公式戦の第一号ホームランを打ったことで、日本プロ野球史にその名を刻んでいますが、市川市行われたプロ野球公式戦における第一号ホームランを打った選手でもあるわけです。

藤井勇選手とは、どのような選手だったのか、Wikpediaで確認してみましょう。

最初の公式リーグ戦である1936年春の第一回日本職業野球リーグ戦大阪大会(甲子園大会)では、二番打者として活躍し、5月4日の東京セネタース戦では、野口明から左中間を破るランニング本塁打を放った。これは日本プロ野球公式戦第一号本塁打である。この大会で藤井は全5試合に出場して、19打数10安打で打率.526を記録し、首位打者、最多安打、本塁打王となる活躍をみせた。

(中略)

1950年、新球団の大洋ホエールズに移籍し、数少ないベテラン選手として四番打者に抜擢されると、全140試合に出場し、34本塁打、122打点、177安打と自己最高の成績を残した(122打点は1999年ロバート・ローズに破られるまで半世紀の間、横浜球団記録であった)。その後も、1951年8月5日の広島カープ戦で1試合4二塁打の日本記録を樹立するなど、1958年まで選手としてチームを支えた。

出所:Wikipedia 「藤井勇」

プロ野球の創成期にしっかりとその名を刻んでいる藤井勇選手、覚えておいてください(「市川検定(仮)」に出題されるかもしれません)

この日は、もう1試合、プロ野球の公式戦、中日ドラゴンズと読売ジャイアンツの4回戦も行われました。出場選手には、近年用いられる「レジェンド」(時には現役選手にさえ用いられています)とは異なる重みをもつ、「伝説」という言葉が相応しい名選手がズラッと名を連ねています

ドラゴンズの坪内道典、西沢道夫、杉山悟、野口明ジャイアンツの千葉茂、川上哲治、青田昇、別所毅彦の各選手が、今から72年前の春に市川市で行われた試合に出場した――という事実を、この手に装着したキャッチャーミットでしっかりと受け止めたいと思います。

さて、先ほど、プロ野球の第一号ホームラン記録者である藤井勇選手が、1950年に国府台球場で開催された初のプロ野球公式戦でも、国府台球場での第一号ホームラン打者になったということを書きましたので、国府台球場で飛び出したホームランについて確認してみます。

国府台球場では行われた公式戦7試合で、14本のホームランが記録されています。記録した選手は以下の11名です。

保井浩一
常見昇
関口清治
戸倉勝城
荒川博
山川喜作
手塚明治
藤井勇
片岡照七
溝上治一
上野重雄

あの荒川博さんの名もあります!「あの」と書いたのは、荒川さんが王貞治選手の師匠として知られているからです。常見昇選手は1試合出場で2本、保井浩一選手は1試合出場で3本も放っています。そして、常見、保井の両選手がホームランを打ったのは同一の試合で、この試合、ヌ・アント!国府台球場では、計9本ものホームランが飛び出したのでした!

国府台球場で記録された14本中のホームランのうち、半分以上の9本が、1950年5月31日に放たれたのです。この日の試合は一体どんな試合だったのでしょうか?

5年前の2017年のプロ野球の試合に関する記事の中で、この試合のことが取り上げられていたので、その記事を引用します。

5月12日、東京ドームのロッテ戦で、日本ハムは球団タイとなる1試合7本塁打を記録した。大田とレアードが2本塁打ずつを記録。ロッテ先発の涌井は自己ワーストの6被弾だった。

大田 2号(2回 涌井)
近藤 3号(3回 涌井)
レアード 8号(3回 涌井)
西川 3号(4回 涌井)
レアード 9号(5回 涌井)
大田 3号(5回 涌井)
中田 3号(5回 大嶺祐)

日本ハムが1試合に7本塁打を放ったのは、東急フライヤーズ時代の1950年5月31日、市川国府台球場での毎日戦以来の出来事だった。当時の7本塁打を振り返ってみよう。

保井 1号(1回 上野)
常見昇 1号(1回 上野)
保井 2号(3回 上野)
常見昇 2号(4回 上野)
溝上 2号(5回 佐藤)
保井 3号(8回 萩原)
片岡 7号(9回 萩原)

毎日オリオンズは千葉ロッテ・マリーンズの前身チームなので、奇しくも67年ぶりに同じ5月に同じカードで記録が生まれたことになる。3本塁打した保井浩一は、1950、51年と2年だけプロに在籍し、通算10本塁打。そのうち3本をこの日に打った。実はこの試合、東急は7本塁打しながら11-23で大敗している。

出所:フルカウントWebサイト、「球団タイ1試合7発の日本ハム、ロッテとの数奇な運命」(2017年5月13日)、https://full-count.jp/2017/05/13/post68369/、2022年8月23日閲覧

それでは、ホームランが9本も飛び出したという、1950年5月31日に国府台球場で行われた毎日オリオンズと東急フライヤーズの7回戦のスコアや各選手の成績を確認してみましょう(情報出所:https://2689web.com/1950/OF/OF7.html

1950年5月31年、国府台球場で開催された、毎日オリオンズと東急フライヤーズの7回戦のスコア。

敗:東急フライヤーズ(北海道日本ハムファイターズの前身)
  15安打、7ホームラン、11点

勝:毎日オリオンズ(千葉ロッテマリーンズの前身)
  23安打、2ホームラン、23点

両チーム合わせて38安打、9ホームラン、34得点という乱打戦です。東急フライヤーズはホームランを7本も放っていますが、敗れています。3本のホームランを打った保井浩一選手ですが、3本ともソロホームランでした。3番打者の彼の前を打つ1、2番打者は合計で10打数1安打と不調で、ほとんど出塁できなかったという巡り合わせの悪さ!

出場選手全員の当日の成績は以下の通りです。

1950年5月31年、国府台球場で開催された、毎日オリオンズと東急フライヤーズの7回戦における東急フライヤーズの打者成績。
1950年5月31年、国府台球場で開催された、毎日オリオンズと東急フライヤーズの7回戦における毎日オリオンズの打者成績。
1950年5月31年、国府台球場で開催された、毎日オリオンズと東急フライヤーズの7回戦における両チームの投手成績。

この試合で3本もホームランを打った保井浩一選手とは、どんな選手、あるいは人物だったかというと、高校野球の監督を務めて甲子園出場に導いた後、プロ入りしたという異色の経歴の主です。国府台球場で3ホームランを放った1950年がプロ1年目で、それなりに良い成績を残していますが、翌年限りで引退しています。

平安中学から立命館大学専門部法科を経て、中央倉庫、満州電電、京都大丸で活躍。平安高校監督を務め、戦後初の甲子園出場に導いた。1950年に東急フライヤーズに入団した。1年目は内野手として主に一塁・三塁を守った。87試合に出場し、打率.280、9本塁打を放つ活躍を見せる一方、3月16日、大須球場で行われた西鉄クリッパース戦では4番手投手として、0-14となった4回表の途中から登板し、最後まで投げきった。1951年限りわずか2年で現役を引退した(以下略)

出所:Wikipedia「保井浩一」

この試合には、「あの人」も出場していました。あの人とは、蔦文也(つた ふみや)選手、というよりも、池田高校の蔦文也監督と言った方が通りが良い人物です。蔦監督は、池田高校の野球部の監督を40年も務め、甲子園に春夏通算14回出場し、37勝、優勝3回、準優勝2回という素晴らしい成績を残しました。

私がこのスコアを調べて面白いと思ったのは、ホームランを打ったバッターたちよりも東急側3人目の投手としてマウンドに上がって最終回1イニングを投げている蔦です。
これも野球マニアの方ならすぐにピンと来たと思いますが、この蔦という投手、高校野球史に残る名将として名高い、元池田高監督の“攻めダルマ” 蔦文也氏のことなんですよ。
社会人野球で活躍していた蔦氏はこの年に東急へ入団していてプロ1年目シーズンだったのです。ですがこの年限りでプロは引退、翌年から池田高校へ社会科教諭として赴任し野球部の監督も務めることになるわけですね。

出所:僕の中の大投手論「67年目の復讐」(2017年5月13日)、http://b96077.blog.fc2.com/blog-entry-680.html、2022年8月23日閲覧(太字は筆者)

この日の試合には、後に高校野球で名監督となる蔦文也選手と、プロ入り前に高校野球の監督としてチームを甲子園に導いたことのある保井浩一選手が出場していたのですね。

ちなみに、毎日オリオンズの出場選手には、呉昌征選手や別当薫選手の他、西本幸雄選手の名前もあります。この年、1950年がプロ1年目でした。プロ野球史には選手としてではなく監督として名を刻んでいる西本幸雄氏。20年間の監督生活でリーグ優勝8回という成績を残しながらも、1度も日本一になれなかったため、「悲運の名将」と呼ばれました。

別当薫選手、呉昌征選手について触れられた記事を紹介します。

80年以上のプロ野球の歴史の中で、私が考える最強の右バッター5人、左バッター5人がいる。右バッターは別当薫さん(元毎日ほか)、藤村富美男さん(元阪神)、中西太さん(元西鉄)、長嶋茂雄さん(元巨人)、落合博満(元ロッテほか)。左バッターは大下弘さん(元東急ほか)、川上哲治さん(元巨人)、王貞治(元巨人)、私も入れてもらい、そしてイチローだ。

出所:週刊ベースボールオンライン、「【張本勲の“喝”】歴代の最強打者たちは確かな技術を持っていた/張本勲コラム」(2019年4月16日)、https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=101-20190416-80、2022年8月1日閲覧 (太字は筆者)

あまりの俊足ぶりから「人間機関車」の異名を持っていた呉昌征。映画『KANO』で知られる台湾の嘉義(かぎ)農林学校を卒業して巨人に入団し、左投げ左打ちの俊足巧打で1年目から中堅手のレギュラーになり、1944年に阪神に移籍した。戦後は阪神、そして、毎日オリオンズ(現千葉ロッテ)でもプレーした。プロ野球歴は通算20年に達した。

(中略)

1942年の雑誌『野球界』は、「現在の日本球界随一の三名中堅手」を挙げており、その中でも「なんといっても呉が第一人者」と書いている。

(中略)

性格も謙虚で親しみやすく、チームメートから好かれていて、46年に復活したプロ野球で東西対抗戦が行われた時、東軍の巨人の元同僚と、西軍の阪神の同僚との間で、呉昌征がどっちのチームに入るかで取り合いが起きたと、当時の新聞に報じられている。

出所:nippon.com、「大谷翔平の活躍で脚光当たる「元祖二刀流」の台湾人選手、呉昌征のすごさ」(2021年10月2日)、https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g01190/、2022年8月20日閲覧

* * * * *

国府台球場で、1950年と1954年に計7試合だけ行われた、プロ野球公式戦には、上記の通り、「打撃の神様」川上哲治をはじめ、プロ野球の伝説的な選手が出場しています※1

【一塁手】
西沢道夫(初代ミスタードラゴンズ)
川上哲治(赤バット、打撃の神様)

【二塁手】
本堂保次
千葉茂(猛牛、バファローズ球団の由来)

【三塁手】
藤村富美男(初代ミスタータイガース)
小玉明利
杉浦清
南村不可止

【遊撃手】
鈴木武
平井正明

【右翼手】
毒島章一(三塁打の毒島)
藤井勇(プロ野球第一号ホームラン)
関口清治

【中堅手】
呉昌征(人間機関車)
青田昇(じゃじゃ馬)
坪内道典(野球名人。プロ野球初の1000試合出場、初の通算1000本安打)
別当薫(慶應ボーイ)
後藤次男

【左翼手】
山内和弘(打撃の職人、シュート打ちの名人、オールスター男、ミスターオリオンズ、かっぱえびせん)
金田正泰
杉山悟
戸倉勝城

【捕手】
土井垣武(和製ヨギ・ベラ)
野口明(野口4兄弟)

【投手】
別所毅彦(べーやん、鬼軍曹)
御園生崇男 A
荒巻淳(火の玉投手)
米川泰夫
関根潤三 B

A:創世記タイガースの名投手として知られた御園生崇男選手は、打者としての出場でした(国府台球場で試合に出場した1950年は内野手登録でした)。
B:打者で1000本安打・投手で50勝を記録し、オールスターゲームでは初めて投手・野手の両方でのファン投票選出されたことでも知られる関根潤三選手は、国府台球場での出場時は投手でした(1954年、近鉄パールス)。1954年8月26日に開催された毎日オリオンズと近鉄パールスの14回戦が、現時点での国府台球場で開催された最後のプロ野球公式戦で、この試合で関根投手は6安打完封勝利をおさめています。

上で挙げた選手になじみがない人も多いと思いますので、参考までに通算成績を注釈に掲載します(とはいえ、かなり昔の選手であり、通算成績の数字だけではその凄さがわからない(数字の上ではこれらの選手を上回る選手が少なくないため)とは思います。昔の選手の凄さについて本稿で語ることはしませんので、興味のある人はWikipediaなどでチェックしてみてください)

なお、国府台球場で試合が行われなかった1953年の6月14日には、当時高校生だった長嶋茂雄さんが、市川高校のグラウンドで行われた練習試合で、初めて三塁手(サード)を務めています。

現在の市川市とプロ野球の関係はあまり強くありませんが、色々と歴史を調べると、プロ野球関連の「歴史的な出来事」が市川市内で発生していたということがわかり、面白いですね。

最後に、現役のプロ野球選手で市川市との関連が強い選手に関する、10年前の記事を紹介します。

山内中3年時に「青葉緑東シニア」で全国制覇し、期待されて桐光学園高に入学。昨年4月から1カ月間は千葉・市川市の自宅から通学したが、午前4時起床、午後10時以降に帰宅する生活が続き、8キロの激やせ。機嫌が悪くなり家族との会話もなくなったが、5月に川崎市の寮に入ると本来の姿を取り戻し、1年秋から背番号1を着ける。

出所:ドラフト会議、「【更新】桐光学園・松井裕樹投手が大会新記録の22奪三振!」(2012年8月10日)、https://www.draft-kaigi.jp/highschool/high-draftnews/7949/、2022年8月23日閲覧(太字は筆者)元の情報は、サンケイスポーツ「桐光学園・松井、甲子園新22K」(2012年8月10日)

この選手は、東北楽天ゴールデンイーグルスに所属する松井裕樹投手で、元の記事は桐光学園高等学校時代の松井投手の活躍を報じるものでした。午前4時起床で午後10時帰宅というのは過酷すぎますね。機嫌が悪くなると会話が減るのは高校生ならば(高校生でなくても)当然という気もします。

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国府台球場を含む、国府台公園は、2022年8月現在、工事中です。当初の予定では2022年には球場の整備が終るということでしたが、さて、どうなるでしょうか。千葉ロッテマリーンズの二軍の試合が開催される際には、観戦したいと思います。

国府台公園の再整備後イメージ。画像出所:市川市「国府台公園再整備基本設計(建築基本設計)」(平成31年3月)、https://www.city.ichikawa.lg.jp/common/000306997.pdf

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〈注釈〉

※1:国府台球場で開催されたプロ野球公式戦(1950年、1954年の計7試合)に出場した有名選手、伝説的な選手たちの通算成績は下記の通りです。プロ野球創成期には、戦争による公式戦の中断があったり、通算2000本安打のような通算記録へのこだわりや注目が現在よりも低かったこともあり、通算成績それ自体が驚くべきものではないという印象の選手が多いかもしれません。

選手の成績出所:WikpediaやNPB公式Webサイトの情報を参考に筆者が作成。
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