【コラム】東京大空襲(1945.3.10)から78年

コラム

公開日 2023年3月11日

今日は、東日本大震災のあった2011年3月11日から12年目です。そして、昨日、3月10日は、東京大空襲のあった1945年3月10日から78年目でした。

太平洋戦争で敵対していたアメリカ軍は、1944年11月24日から本格的に東京方面に空襲を行いました。市川市の上空は、東京方面の空襲を終えたアメリカ軍のB29爆撃機などの帰り道で、市域の上空から落とし残しの焼夷弾や爆弾を投下したため、この時期、市川市内でも空襲の被害が数多く発生しています。

下図は、「市川市空襲被害状況図」です。

出所:「広報いちかわ」(2020年10月17日 No.1650)

1945年2月25日には、市川新田周辺や中山法華経寺門前などが空襲の被害を受けました。70軒ほどの家屋が全焼・全壊するという大きな被害となっています(情報出所:「広報いちかわ」(2020年10月17日 No.1650)なお、上図にはた大柏村・行徳町・南行徳町の状況は非掲載ですが、その理由は、1944年~1945年当時、市外であり、資料が不十分であるためです)

同年3月10日、東京大空襲の日、市川市では日本毛織中山工場が空襲を受け、1,600坪(約5,280㎡)が全焼したそうです。現在のニッケコルトンプラザが、78年前に空襲を受けた場所にあることを知る人は少ないかもしれません。コルトン敷地内に、その歴史を伝えるモニュメントを建ててはどうでしょうか?

東京大空襲後、市川市域は、市民等総動員で東京方面からの被災者の救護や受け入れをおこない、大きな役割を果たしたそうです。警防団員、病院関係者、中等学校(現在の高校に相当)の防空補助隊、商店等による食糧挺身隊などが召集され、避難者の誘導や食糧の給与等が行われました。国府台陸軍病院、市川国民学校付近、映画館などが救護所となり、さらに東の船橋や千葉方面への、被災者の移送も行われました。戦災者は市川市に移り住むようになり、人口が急増しましたが、そのため、市川市の戦後は食糧難とともに始まりました(情報出所:市川市公式Webサイト内、https://www.city.ichikawa.lg.jp/common/gen01/file/0000360001.pdf

市川市公式YouTubeチャンネル
平和への祈りを未来へつなぐ

「昭和37年警視庁史昭和前編」によると、1945年3月9日深夜から3月10日にかけておこなわれた東京への空襲の犠牲は、全焼家屋約26万7,000戸、死者約8万4,000人に及んだとされます。しばしば、犠牲者は約10万人という表現もされています。実数把握は不可能で、推計することしかできません。

さて、東京大空襲から78年目の2023年3月10日、新聞各紙(オンライン版)はどのように報じたのでしょうか。記事のタイトルとURLを載せておくので、興味のある記事を読んでみてください。

読売新聞オンライン
東京大空襲78年で追悼法要「惨劇を繰り返してはいけない」…小池都知事ら約100人が参列

https://www.yomiuri.co.jp/national/20230310-OYT1T50154/

毎日新聞公式サイト
社説 空襲被害者の救済 早急な決断が政治の責任

https://mainichi.jp/articles/20230310/ddm/005/070/037000c

朝日新聞デジタル
東京大空襲の救済「終わっていない」 頭巾で訴え続ける83歳の思い

https://www.asahi.com/articles/ASR396W7QR37UTIL025.html

東京新聞 Web
「まさに地獄絵図」 江東区の東川小の悲劇 助かったのはプールの中と給食室… 慰霊台設置で児童らが戦争の記憶継承

https://www.tokyo-np.co.jp/article/235631

これらの記事のうち、朝日新聞デジタルの記事から一部を紹介します。

戦時中、米軍の空襲で、何十万もの人たちが犠牲になった。生き残っても、数えきれない数の人たちが手や足を失い、大やけどを負った。疎開していた子どもたちは親を失って孤児となり、過酷な戦後を生きてきた。だが、そんな空襲の被害者たちには戦後、1円も支払われていない。国の謝罪もない。「戦争被害者の救済は、まだ終わっていません」。1945年3月の東京大空襲から10日で78年。河合節子さん(83)=千葉市=は国会前で防空頭巾をかぶり、道ゆく人たちに国による補償を訴え続けている。

出所:朝日新聞デジタル、「東京大空襲の救済『終わっていない』 頭巾で訴え続ける83歳の思い」(2023年3月10日)、
https://www.asahi.com/articles/ASR396W7QR37UTIL025.html、2023年3月10日閲覧 太字は筆者

この記事とともに掲載されている写真には、〈チラシを手に空襲被害者救済を呼びかける河合節子さん。だが、チラシを受け取る人は少ない=国会前〉というキャプションが添えられています。

東京大空襲は遠い昔のこと――では、ないのです。

先程唐突に書きましたが、コルトンプラザに空襲の被害に遭ったことを後世に伝えるモニュメントを建てることを真剣に提案したいとも思います。

昨夏、戦争について綴ったコラムもあわせてお読みください。

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ちなみに、冒頭の画像は、ジョン・レノンさんとオノ・ヨーコさん、ご夫婦で、「WAR IS OVER(戦争は終わった)」は、1971年に2人が発表した曲の名前です。正確には、曲の副題で、「Happy Xmas (War Is Over)」というのが曲名です。ヴェトナム戦争に対するプロテストソングです。

それでは、みなさん、またお会いしましょう。

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