2023年4月3日以来となる、通算15回目の「市川ちょっと話」です。
最早――と書いて「もはや」と読みます(「さいそう」ではなく)――本シリーズ「市川ちょっと話」と、通常のコラムの違いはわからなくなりつつありますね。筆者の私がそうなのだから、読者のあなたもそうでしょう。悩ましいですね。そうでもないですか?もし悩んでいるなら、それは悩んでも仕方がないことです。悩んでいるより、それより僕と踊りませんか?
さて、今日は、市川市の「下貝塚」にまつわる話です。
早速、核心に切り込みます。
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「下貝塚」という地名、これは、かつて市川市が東葛飾郡の一部だった時代に存在した「下貝塚村」に由来します。この「下貝塚村」は、1879年(明治12年)に改称されたのですが、afterが「下貝塚村」で、beforeは何だったかというと、大方の予想通り、「貝塚村」でした。同じタイミングで、「上貝塚村」も誕生しており、beforeはやはり「貝塚村」でした。
つまり、当時(というのは1897年の村名改称前)、東葛飾郡には、2つの「貝塚村」が存在していた、というわけです。北の方の「貝塚村」を「上貝塚村」、南の方の「貝塚村」を「下貝塚村」に改称したのです。
上の地図は1889年(明治22年)4月1日に施行された町村制で誕生した町村に、1897年(明治30年)4月1日に施行された郡制の際に東葛飾郡に所属することになった町村を加えたものです。紫色の文字の町村は現在の市川市に相当します。
町村制の施行時に、「下貝塚村」と「上貝塚村」は、それぞれ他の村と合併して、「13.五常村」と「28.新川村」になりました(下貝塚村→「13.五常村」、上貝塚村→「28.新川村」)。
現在の市川市に、「下貝塚」という地名が残っているように、流山市には「上貝塚」という地名が残っています。
上の「* * * * *」から、ここまでの情報および図は、いずれもWikipedia「東葛飾郡」を元に作成しました。横着しちゃってすみません(素直にI’mSorry ※1 ※2)。
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現在の「上貝塚」(流山市)はこんな感じ↓です。飛地になっていますね。
一方、現在の「下貝塚」(市川市)は、この通りです。
タイトルを「下貝塚は上貝塚の妹かもしれない(あるいは弟かもしれない)」としていますが、上や下は年齢のことではありません。北が上、南が下、そんだけっ!※3(映画『ピンポン』からの安易な引用です。引用元は「この星の1等賞になりたいの卓球で俺は!そんだけ!」)
実際は同じタイミングで誕生した地名なので、双子ですね。双子の場合も姉妹、兄弟がありますが、ま、深入りはしません。深煎りは良いですけどね、コーヒーのね。
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でも、まぁ、「上貝塚」と「下貝塚」が、姉妹都市ならぬ姉妹町(行政区分上の町ではないですが)という間柄になるというのは良いかもしれませんね。江戸川を遡れば、やがて、「上貝塚」です。
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最後に、こんなものを。
この画像は何かというと、左半分がフランス語、右半分が英語で、意味は多分同じです。これらは、下貝塚中学校の校歌(作詞:三越左千夫)を、フランス語訳および英訳したものです。ChatGPTに頼っちゃいました。
それでは、また。下貝塚で会いましょう!
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執筆日 2023年6月12日
公開日 2023年6月17日
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〈注釈〉
※1:なるべくならWikipediaからの引用はしたくないのですが…。いいわけだよね、嗚呼…※4。
※2:チェッカーズ。
※3:映画『ピンポン』からの安易な引用です。引用元は「この星の1等賞になりたいの卓球で俺は!そんだけ!」。なお、済東鉄腸さんは安易な引用はしないと心に決めているそうです。
※4:シャ乱Q「いいわけ」より。