【市川ちょっと話】「市川大野駅 設置位置は南大野のはずだった」説

コラム

「市川ちょっとばなし」愛読者の皆様、ご無沙汰しています。

シリーズ『市川ちょっと話』
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2023年10月3日に公開した「行徳富士に登った人がいます」以来、80日ぶり、通算18回目の「市川ちょっとばなし」です。

今回は、南大野に長らく住んでいる人ならば、聞いたことがあるかもしれない噂の話です。

南大野界隈では、「市川大野駅 設置位置は南大野のはずだった」という説が、まことしやかに語り継がれているのです。

下の地図の赤いピンは、この辺に武蔵野線の駅ができるはずだったという、大体の場所を表しています。

地図の右下にある[+]と[-]のうち、[-](ズームアウト)を何回か押して、広域地図に切り替えてみてください。市川大野駅は、この場所から見て、直線距離で北北西方向に約900mの場所にあります。

南大野の「この辺り」に設置されるはずだったという説が支持されているのは、現在の市川大野駅周辺には、商業地らしいものがなく、曽谷や迎米むかいごめの方から駅に至る道路や、南大野(つまり「この辺り」)から駅に至る道路には片側にしかまともな歩道がないことに加え、斜面林をはじめ豊かな自然が(以前よりは減っているとはいえ)今も残されているのに対して、「この辺り」の方には、こざと北公園と武蔵野線の線路を結ぶ道路の両側にそれなりに広い幅員を持つ歩道が備わっていますし、スーパーマーケット(マルエツ)などの小売店や飲食店がそれなりにあり、マンション群も立ち並んでいるなど、相対的に人工物の種類や量が多く(「この辺」を代表する自然は人工的な「こざと公園」なのです!)、都市化されているからだと思います。

さて、では、この説は真なのか偽なのか?

約16年(15年9か月)前に市川市議会で、こんな発言がありました。なお、これより引用するのは市川市議会の会議録で、中山幸紀議員と齊藤正俊道路交通部長の肩書は当時のものです。

中山幸紀議員が、JR武蔵野線の市川大野駅と船橋法典駅の間の南大野に新駅を建設することの必要性を主張している箇所からの引用です。

 なぜ新駅が必要かと申しますと、市川大野駅が開業して30年たちますが、市民の要望である駅前の駅としての整備ができない。現状が限界であると思います。地元の方に30年前の駅開所当時の写真を見せてもらいましたが、30年間という時の経過を感じさせる変化はありませんでした。駅周辺に店がふえた程度です。市川大野駅をこの場所に決定したことに関し、30年がたった今、総括をしなくてはならないでしょう。駅を総括するとは変でもありますが、なぜこの場所に駅を決定したのか。当初は別の場所の南大野3丁目にあるスーパーマルエツ先と聞いていますが、地元の古くからの住民も、そのような話をしていました。駅の場所決定に当たっては、■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■駅の場所を決定するに当たり、当然、今後増加するであろう利用者数を勘案し、駅前広場、バスロータリー、タクシー、一般車の乗りおりの場のスペースを確保できる場所を決定すべきでした。十分ではなくても、ある程度の広さは要求されます。市民の安全確保のためにも必要です。
 このような現状を考えますと、なぜあのような高低差のある谷間のような場所に駅をつくったのか、まことに残念でなりません。市川大野駅を今の場所に決定したのは、明らかに間違いだった、失敗だったと考えます。そのような多角的な視点で考えまして、市川大野駅は現状のまま利用し、新たに船橋法典駅間に新駅を建設し、本市の北東部の活性化、発展の拠点とし、また、将来の大柏支所の交通の利便性向上、交通の要衝になり得る場所として、将来を見据えた市民のための駅が必要です。ぜひ新駅の建設を推進していただきたい。市民の長年の強い要望です。都営新宿線の延伸問題解決のためにも重要なファクターとなり得ます。

出所:市川市公式Webサイト、「2008年3月19日 会議録」、https://www.city.ichikawa.lg.jp/cou01/kaigiroku20080319.html、赤色太字は筆者による強調

引用箇所に「■■■‥‥■■■」がありますが、これは伏字(非表示)で、不適切だと指摘されて後から撤回したことを表しています。駅の場所決定について中山議員が何を語ったのか気になりますが、読めないのであきらめるしかありません。もっとも、ここがわからなくても、大丈夫、心配ありません。赤色太字で強調した箇所「当初は別の場所の南大野3丁目にあるスーパーマルエツ先と聞いています」が確認できれば十分です。

人に聞いた話でしかないわけですね。何らかの公文書の類を根拠とする発言ではなく、説、あるいは噂と呼んでよさそうなことを発したわけです。

中山議員は、この引用箇所の発言の直後に、駅の場所を現在の市川大野駅の場所に決定した経緯と理由を質問しています。

これに対して、齊藤正俊道路交通部長は次のように回答しています。

最初に、JR市川大野駅の設置の経緯についてでございますけれども、JR市川大野駅がございます武蔵野線のうち、新松戸駅から京葉線と接続するまでの延長約15㎞の区間につきましては、昭和41年9月1日に日本鉄道建設公団が運輸大臣から工事施行認可を受けておりまして、市川大野駅は、この区間が開通しました昭和53年10月2日に開設された駅でございます。この15㎞の区間は、計画当初は小金線という名称でございましたが、新たな駅は松戸市内で新京成電鉄と交差する付近の八柱駅、市川市大野町3丁目の下総大野駅、船橋市藤原町の北船橋駅の3駅となっておりました。それぞれ現在の新八柱駅、市川大野駅、船橋法典駅でございまして、工事の認可日が昭和41年でございます。42年前後に現在の駅舎部分の土地を国鉄が取得しておりますことから、位置については、遅くとも昭和30年代後半に具体的な検討が行われていたというふうに思われます。    

(略)

なお、駅の位置決定に際しましては、駅と駅との間の距離のバランスや、昭和30年代の大野地区の町の中心が市道0128号、これは現在の市川大野駅の前の通りでございますが、この通り沿いであったということから、市北部の利用者に対する利便性が高いということなどを総合的に判断して、現在の位置に駅を決定したのではないかというふうに認識をしております。

出所:市川市公式Webサイト、「2008年3月19日 会議録」、https://www.city.ichikawa.lg.jp/cou01/kaigiroku20080319.html、赤色太字は筆者による強調

市道0128号とは、先ほど私が「曽谷や迎米むかいごめの方から駅に至る道路」と書いた道路のことです。この道路沿いが、昭和30年代(映画『ALWAYS 3丁目の夕陽』の時代設定が昭和30年代)の大野地区の中心だったことが、駅の位置決定理由のひとつなのですね。

確かに、本八幡駅から宮久保、曽谷を通って、大野、大町へと続く道路ですからね。昭和30年代には、現在の南大野は葦原だったと思います(すいません、当時の地図を確認すればよいのですが、横着して調べていません)。

そして、市川大野駅が完成したのは昭和53年です。ちなみに、上の齊藤部長の発言にある通り、武蔵野線は計画段階では小金線と呼ばれており、市川大野駅は下総大野駅、新八柱駅は八柱駅、船橋法典駅は北船橋駅という仮称で呼ばれていました。

下総大野!シモーサオーノ!「市川まちガチャ」の町名小判札のカタカナ表記みたいですね、シモーサオーノ!

たまに、あえて「下総大野駅に行く用事がある」などと、計画時点の仮称で呼んでみるのも粋かもしれません。いまだにコルトンプラザのことを「プランタン」と呼んでいる人がいるので、「下総大野駅」と呼んでいる人がいてもおかしいとは言い切れません。

というわけで、「市川大野駅 設置位置は南大野のはずだった」という説は、あくまでも噂であって、駅と駅の間隔と当時の大野地区の中心地ということを考慮して、現在の位置に決定したようですね。

齊藤部長は、しかし、「現在の位置に駅を決定したのではないか」と述べており、100%そうであると断言してはいないのです。ということは、南大野説は完全に偽だと言い切ることもできないのかなと思います。

なお、なぜ南大野のマルエツの先ではなく、今の場所に駅がつくられたかという理由として、当時の議員が今の市川大野駅の近くに住んでいたから、ということがまことしやかに囁かれています。この噂が完全に否定されたわけではありませんが、しかし、どうなのでしょうね。

この件をもっと掘り下げていこうという逞しい好奇心を持ち合わせてはいませんが、何かご存知の方がいれば、教えてください。

それでは、多分来年(2024年)になると思いますが、次回、第19回となる「市川ちょっと話」でお会いしましょう!

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執筆日 2023年12月14日
公開日 2023年12月22日