【コラム】「地域」という語にはない、「隣近所(となり・きんじょ)」という語の持つ生々しさ

コラム

公開日 2022年1月5日

本稿は「【国会】フードバンク、フードパントリー、子ども食堂などへの行政支援について」(2022年7月1日公開)の注釈3と注釈4の内容を大幅に加筆修正したものです。

年が明けて三が日が終りましたが、調子は戻りましたか?おせち料理を食べたり、お酒を飲んだり、元旦マラソン大会に出場したり、ラーメンを食べたり※1している人も多いことでしょう。

まとまった休みを利用して、ここぞとばかりに、読みたかった本や読み直したい本のページをめくっている人もいるかもしれません。その一人が私で、冒頭の画像は、最近私が読んでいる書籍の一部です。左から順に、

  • まちづくりの思考力 暮らし方が変わればまちが変わる/藤本穣彦
  • まとまらない言葉を生きる/荒井裕樹
  • 水中の哲学者たち/永井玲衣

です。

『まちづくりの思考力』は、著者の藤本穣彦さんが携わった国内外のまちづくりを、どのように実践したのか、戸惑いや逡巡を経て、課題を解決していく様が紹介されている本です。

『まとまらない言葉を生きる』は、「NPO法人 わたくし、つまりNobody」が主催、運営する「(池田晶子記念)わたくし、つまりNobody賞」の第15回目の受賞者、荒井裕樹さんによるエッセイ集です。

『水中の哲学者たち』は、株式会社紀伊國屋書店による「紀伊國屋じんぶん大賞2022 読者と選ぶ人文書ベスト30」で29位にランクインした哲学エッセイ本です。

どれも面白い本ですが、本稿では、荒井裕樹さんの『まとまらない言葉を生きる』を読んでいて引っ掛かりを感じた箇所を取り上げます。そして、そこから派生して、寄り道をしながら、目に留まった景色について語るように、話題をつないで文を紡ぐ予定です。

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地域ではなく、「隣近所(となり・きんじょ)」

『まとまらない言葉を生きる』の「第五話 『地域』で生きたいわけじゃない」に、脳性麻痺者で「青い芝の会」※2で活動した障害者運動家の横田弘さんの発した、「『地域』じゃない。『隣近所となりきんじょ』だ」という一言が登場します。

では、世の中全体が障害者の地域生活を自然に受け止めているかと言うと、残念ながらそうとは言えない。仮に「地域」という言葉を「隣近所」に置き換えてみてほしい。「『地域生活』には賛成だけど、でも、うちの『隣近所』はちょっと……」という反応は、やっぱり出てくると思う。

「地域」という言葉は、使い方次第では結構あやうい。例えば、「この施設は夏祭りとクリスマスに地域住民と交流しているので、地域との交流に取り組んでいる」と言い方もできなくはない。でも、夏祭りとクリスマスにしか交流がなかったら、それは「住み分け」だ。

あるいは、グループホームが街中にあれば「地域生活になるかといえば、そうとも限らない。入居者への管理が厳しくて自由に外出できなかったり、福祉関係者以外と付き合う機会がなかったりすれば、それはやっぱり「地域生活」じゃない。

出所:荒井裕樹『まとまらない言葉を生きる』(柏書房、2021年) 太字は筆者

荒井裕樹さんは、「隣近所」という言葉には生々しい生活実感があり、「地域」という言葉にはそのような生々しさがない、と言います。ほどよく生々しくないからこそ、「地域」という語は行政文書で使いやすいのだろうとも。そして、「地域」という語は、実際は共生していなくても、あたかも共生しているかのような印象を与えるマジックワードになりかねないとも言っています。

荒井さんは、一方で、自分と全く異なる生活習慣や価値観を持った人が「隣近所に住みたい」と言ってきたとしたら、ピクッとするだろうとも述べています。「ピクッとする」この感覚は何なのでしょうか。隣近所にやって来るその人の行動が、自分の生活を脅かすようなことはないとしても、自分との差異を感じ、変だなと思うことが多くなると、何らかのストレスを感じることはあるかもしれません。

隣近所で生活する他者と日常的に顔を合わせ、挨拶の言葉を交わしていれば、異なる習慣や価値観を持つその人のことを断片的であれ、知ることができるかもしれません。

このあたりのことと関連する話を、昨日公開したコラムでも綴っているので、紹介します。

異質な人同士が交ざり合って時間を過ごす中で他者への想像力が働く

元日にコンビニエンスストアDYチェーンの店舗で買った千葉日報(新聞)に載っていた、ライターのブレイディみかこさんと歴史学者の藤原辰史さんの対談記事から、分断を乗り越えること、共感するということ、他者に対する想像力を働かせることに関するお二人の発言を紹介します。

  • 作家の辺見庸さんが「もの食う人びと」の中で、民族や宗教、階級の異なる多くの人々が混然一体となって平和にご飯を食べているタイのレストランの状況を描き、「食べている間くらいは、人間は連帯できるかもしれない」と書いている
  • 「エンパシー」は「他者の感情や経験などを想像する能力」で、「シンパシー」は「自分の内面からわき出る共感・共鳴の感情」
  • 「エンパシー」は人々が経験から獲得できる能力で、そこに分断を乗り越える鍵があるかもしれない
  • コミュニティーカフェみたいなところで肌の色や文化の違う人たちが交ざり合って時間を過ごす中で他者への想像力が働く

情報出所:千葉日報「対談:分断を超える 他者と分かり合う」(2023年1月1日、16面・17面)
※ライターのブレイディみかこさんと歴史学者の藤原辰史さんによるオンライン対談

今紹介した発言以外にも刺激やインスピレーションを与えてくれるような言葉が多く飛び出してるこの対談は、是非、新聞で全て読んでいただきたいですが、それは難しいと思うので、後ほど時間があるときにでも、「【コラム】できることは私の足元にある」をチェックしてみてください。

フリースタイル市川も、しばしば、「地域活動」や「地域生活」という語を使います。「地域」という語は、確かに使いやすい言葉だとも感じています。

高頻度で使っている割には、この語が何を指しているのか、誰を含んでいて、誰を含んでいないのか、といったことを考えもしていませんでした。筆者は、半年以上前に荒井さんの『まとまらない言葉を生きる』を読んでいたのですが、「地域」という語の使い方を深く考えることから逃げ続けているのです。

一方、「地域」という語がしっくりこないと感じていて、よりご自身の活動にピッタリな語を探している人もいます。

「地域」よりも範囲の狭い「現場域」、「わたしと地域の接続域」

「地域」に代わる言葉、「隣近所」のような言葉を探しているのは(探していた)、ローカル・アクティビストの小松理虔さんです。

小松さんは、2022年5月2日にTwitterに、〈地方についてではなく、「地域」について書きたい〉、〈「地域」よりも範囲の狭い「現場域」みたいなものについて書きたい〉、〈「わたしと地域の接続域」みたいな〉と書いていました。

単に範囲の狭さを表す語を探しているというよりも、自分自身の手が届く範囲を表現する言葉を見つけようとしている、といった感じがします。

たかが言葉と言うなかれ。

しっくりくる言葉を探すこと、あるいは造ること。

使いやすいから、という浅い理由で「地域」という語を使いまくっている筆者にはない、真摯な態度を見習いたいと思いました。

真摯に言葉と向き合っても良いかもしれませんよ(控えめに)

本稿では、よく使われていて、自分でもよく使っている「地域」という語(単語そのものというよりは、主に役所によるその後の使い方)への違和感を表明している人がいるということを取り上げ、生々しい生活感のある「隣近所」や、地域よりも狭い範囲の「現場域」や「わたしと地域の接続域」といった語を紹介しました。また、ライターのブレイディみかこさんと歴史学者の藤原辰史さんの対談記事から、異質な者同士が共感しあい、分断を乗り越えていく、ということに触れていた部分を取り上げました。

紹介した、取り上げた、それらを並べた、本稿は、ただそれだけの記事で、筆者の考察も意見も批判もありません。強いて言えば、コミュニケーションの道具として使われる言葉、一つ一つに対して、真摯に向き合うということを(していないのであれば)してみても良いかもしれませんよ、というような緩い促し、筆者が本稿を通じて示していることと言えば、それくらいでしょうか。

最後の最後に、言葉の使い方について。

先月綴ったコラムの中で、カジュアルに使う人がいるけれど、よい例えではないのではないかと筆者が常々思っている言葉をいくつか挙げているので、引用します。

やなぎ議員は質問の中で、「買い物難民」という語を用いていました。立場福祉部長も「いわゆる」という言葉を添えて、この語を使っていました。この、「難民」というのは、もちろん例えで、実際の難民ではありません。例えとして「難民」という語を用いている語に、昼ご飯を食べることのできる店が混雑していたる等の理由で、食べ損ねた人を指す「ランチ難民」などがあります。最近では、「難民」という本来の語が持つ意味合いを無視してカジュアルな例えとして使うことに対する批判も目に付くようになりました。経済産業省では、「買い物難民」ではなく、「買い物弱者」という語を使っているようです。

「難民」の他にも、「テロ」という、当事者にとっては悲惨で過酷な状況でしかない事象を、カジュアルな例えとして使う用法(「飯テロ」など)に対しても、使用を止めるべきとの意見を目にします。

使う人は悪気なく使っている、ランチ難民、買い物難民、ネットカフェ難民、飯テロ。無邪気にこの種の例えをしてしまうことは、裏返せば、現代日本で生活をしていると、難民問題やテロなどの問題は、遠い海の向こうの話であって、身近な事象ではない、と感じていることの表れかもしれません。

しかし、実はそれほど縁遠い話ではないかもしれません。

市川市にも難民、避難民の方がいらっしゃいます。

出所:特定非営利活動法人フリースタイル市川公式Webサイト、「【コラム】若宮のスーパーが閉店!買い物不便地域の解消策は?」(2022年12月19日公開、2023年1月4日更新)、https://fs-ichikawa.org/food_desert_20221219/、2023年1月4日閲覧(太字は筆者)

それでは、またお会いしましょう!

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〈注釈〉

※1:筆者にとって2023年に食べた初のラーメンは、1月4日に食した「鶏そば朱雀」さんでのこの一杯塩鶏そば極みです。

筆者が、下総中山駅の南口にある「鶏そば朱雀」さんで、2023年1月4日の18時過ぎに食した「塩鶏そば極(きわ)み」です。撮影日:2023年1月4日

※2:〈青い芝の会とは、今から55年前に結成され、現在も活動を続けている脳性マヒ者の当事者団体である。この会は、重症児殺し告発運動、優生保護法改定反対運動、川崎駅前バス占拠闘争など、1970年代の激しい差別告発運動により、広く世に知られるようになった。その激しさゆえに「過激集団」と呼ばれることもあったが、近年の研究によって、その運動のプラス面が正当に評価されてきたといえる。〉(出所:「『青い芝の会』初期の運動と人々」、月刊「ノーマライゼーション 障害者の福祉」2012年8月号(第32巻 通巻373号)収録、https://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/norma/n373/n373009.html